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[Jardine Matheson Part 20]★ジャーディン・マセソンと日本(1)1/16更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は日本とも関係がかなり深いです。アヘンを中国に売って莫大な利益をあげましたが、イギリス本国には茶や生糸などを輸出していました。
 
  1853年マシュー・C・ペリーが大西洋、アフリカ、インド、香港、上海、琉球を経由して来航します。江戸幕府は1年の猶予を求めたのでペリーは日本を離れますが、戻った先はなんと香港でした。1年後には日本に返答を聞きにいかなければならないので、アメリカとイギリスの関係を考えると香港に戻るのは当然といえば当然ですが…。翌1854年に江戸幕府はアメリカと日米和親条約、さらに4年後の1858年7月に日米修好通商条約を結びます。これを機にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも通商条約を結びます(安政の5カ国条約)が、うち日英修好通商条約は1858年に結ばれました。
 
  この条約は、箱館・兵庫・神奈川(=横浜)・長崎・新潟五港の開港し、内容も関税の面で日本に不利な不平等条約である事は皆さん歴史の勉強で習ったと思います。そうなれば5カ国の企業が日本で儲けようと思うのは当然です。その1つがジャーディンでした。
 
  ジャーディンは、創業者のWilliam Jardine( 威廉・渣甸)の姉の子であるWilliam Keswick(耆紫薇)を日英修好通商条約が結ばれた翌年の1859年7月1日という実際の開港と同時に香港本社から横浜に送りこみます。なおケズウィックは今の怡和洋行を支配する一家の始祖なので、ケズウィック一家で別の回で書きます。
 
  同社の横浜支店とわるわけですが、同年末に2階建ての商館をあのスーパーゼネコンの1つである鹿島によって建設されました。場所は外国人居留地の1番につくられました。ジャーディンは香港企業ですがイギリス統治下で、ケズウィックもイギリス人ですから通称で「英一番舘」と呼ばれました。現住所は横浜市中区山下町1で、現在はシルクセンター国際貿易観光会館になっています。そして、そこには「史跡 英一番舘跡」という記念碑が建てられています。
 

[Jardine Matheson Part 19]★ジャーディンの手を離れた企業 1/9更新

多数の企業を運営している怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)ですが、関与がなくなった企業もあります。
 
  例えば、1970年に創立の「怡富集団(Jardine Fleming)」はジャーディンと「投資信託の父」と呼ばれるロバート・フレミングが1873年に設立したロバート・フレミング・グループとの合弁企業です。資産運用会社ですが、2000年にJPモルガン・チェースに買収されました。
 
  「Jardines Wines & Spirits」という会社がありました。ワインとスピリッツの輸入販売をする会社で1988年に創業されました。これはジャーディンとモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン(LVMH。ルイヴィトンなどを傘下に持つコングロマリット)のワインとスピリッツ事業の企業であるMoet Hennessy、ジョニーウォーカー、ギネスなどを持つイギリスのDiageoの3社が合弁で作った会社です。ですが、2004年にジャーディンは合弁から離脱し2社の合弁となりました。ジャーディンがいないのに社名がついているのも変ですから2009年にMoet Hennessy Diageo(MHD)と社名を変えています。
 
  いろいろな事業を手掛けているジャーディンですが、このように店じまいをした企業もあるのです。
 
  ジャーディンは実は日本とも深い関係があるので、次回からは日本とジャーディンについての話を書きたいと思っています。
 

[Jardine Matheson Part 18]★ジャーディンのグループ企業その5 ジャーディン・モーターとジャーディン・ロイド・トンプソン 1/2更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は自動車ディーラーである「Jardine Motors」の運営もやっていて、イギリスで成功した独立系のディーラーです。元々は、1969年にNicholasとRonald Lancasterが創立して、1992年にJardine Motors 100%の子会社となって現在に至っています。
 
  23カ国70カ所に販売網があり3000人が働いています。アストンマーチン、フェラーリ、ベントレー、ジャガー、マセラッティ、ポルシェ、BMW、ランボルギーニ、レクサス、マクラーレンという高級車ばかりを扱っています。ただ、ホンダ、トヨタという大衆車メーカーも一部扱っています。
 
  「Jardine Lloyd Thompson(JLT)」は、ロンドンにある保険関連会社です。1972年に設立された「Jardine Insurance Brokers(JIB)」と1981年に創業の「Lloyd Thompson Group」の2社が1997年に合併してできた会社です。JLTは135カ国・地域にオフィスを構え、1万人の従業員が働いています。 日本でもJLTホールディングスジャパンとして六本木にオフィスを構えています。
  サービス自体は40カ国・地域で提供されますが、保険のほか、リスクマネジメント、再保険のブローカーなど世界でも有数の規模を誇っています。
 
  ほかにも、シンガポールの株式市場に上場している車関係の会社「Jardine Cycle & Carriage」、インドネシアの財閥である「Astra International」という企業も傘下に治めています。
 
  Jardine Strategicは、親会社の怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)のほか、これまで紹介した香港置地(Hong Kong Land)、牛[女乃]国際(Dairy Farm International)、文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)の株を保有している持ち株会社で、この複雑な支配構造でグループを買収などから守っていると言っていいでしょう。
 

[Jardine Matheson Part 17]★ジャーディンのグループ企業その4 ジャーディン・パシフィック(1)12/19更新

前回までは香港置地(Hong Kong Land)、牛[女乃]国際(Dairy Farm International)、文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)という怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の3本柱を紹介してきましたが、4本柱と言うべきものが怡和太平洋(Jardine Pacific)です。
 
  Pacificという社名がついているように太平洋地域を中心に事業を展開している会社が中心で、建設、航空貨物、エンジニアリング、レストランなど9つのグループに分かれています。
 
  最初に紹介するのは金門建築(Gammon Construction)です。1919年にJohn C. Gammonがインドで創業した建設会社です。英連邦を中心に事業を拡大していました。その中で1955年に旧啓徳空港(Kai Tak Airport)の滑走路の建設工事を受注します。そして1958年には香港に本社を移し現在に至っています。
 
  どれだけの建築物を手掛けたかと言いますと、金鐘(Admiralty)駅、沙田馬場(Sha Tin Racecourse)、交易広場(Exchange Square)、東区走廊(Island Eastern Corridor)、渣打銀行(Standard Chartered Bank)の本社ビル、機場快線(Airport Express)、The One、国際広場(iSquare)、希慎広場(Hysan Place)、香港政府庁舎本部など。現在もMTRの路線も手掛けていますし、香港以外でも、マカオの威尼斯人(The Venetian)、シンガポール、タイ、マレーシアなど、はっきり言ってキリがないというほどあります。もちろん、創業の地であるインドでも今でも大規模工事を手掛けています。
  2016年の売り上げが22億5000万米ドル、8000人に従業員を擁しています。ジャーディンは1969年から株主となり、1975年にギャモンを傘下に収めました。
 

[Jardine Matheson Part 16]★ジャーディンのグループ企業その3 「マンダリン・オリエンタル」12/12更新

香港を代表する最高級ホテルの文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)。創業は1963年ですので、ライバルとも言えるペニンシュラと比べて35年ほど開業が遅いんですが怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)が運営していることもあり、アッという間に世界的にも有名なホテルグループに成長しました。
 
  1963年に文華酒店(The Mandarin)というホテルとして現在のマンダリン・オリエンタルがある場所にオープンします。ホテルの基本構造は今とほぼ同じです。1974年にバンコクにある東方酒店(The Oriental)というホテルを買収し、マンダリン・オリエンタルとなります。
 
  バンコクのホテルを買収する1年前の1973年に銅鑼湾(Causeway Bay)に怡東酒店(The Excelsior)をオープンさせています。1985年に組織変更を行って今のグループ会社名になりました。その後、広州、ジャカルタ、シンガポール、ラスベガス、ニューヨーク、バルセロナ、ロンドン、ミラノ、ミュンヘン、パリなどと拡大に拡大を続け、20カ国・地域に30のホテルを展開し、1万2000人の従業員が働いています。東京は2005年に日本橋にオープンし、2018年にはドーハの開業が控えています。
 
  96室を構える置地文華東方酒店(The Landmark Mandarin Oriental)は、2005年に開業。なぜマンダリン・オリエンタルからすぐそばなのに作られたのかと言うと、2005年12月から2006年8月まで約11億香港ドルを使ってマンダリン・オリエンタルの内部を大改修。その代替として作られたからです。その結果、434室と部屋の数は減りましたが1室あたりの面積は拡大。434室のうち67室がスイートなのですが、全てデザインが異なると言うものです。
 
  悲しい出来事としては、2003年4月1日に香港の俳優・歌手の張国栄(レスリー・チャン)が自殺を図ったことです。当時、香港は重症急性呼吸器症候群(SARS)真っ只中で小生は取材中でしたが、4月1日だったのでエイプリルフールだったので第1報は嘘だと思っていました。もう1つはエクセルシオールの再開発が決まったことです。オフィスビル兼ショッピングモールに変わるようですが、詳しいことはまだ発表されていません。ここは、地下にDicken’s Barという香港屈指の規模を誇るパブ(=スポーツバー)があるほか、上層階は香港の夜景が美しいToTT’s and Roof Terraceがと言うバーが有名でした。
 
  マンダリンはThe Fan Campaignというのをやっていて、世界のセレブと契約。このホテルのファンですというのをアピール。高田賢三、張曼玉(マギー・チャン)、モーガン・フリーマン、ソフィー・マルソー、クリスチャン・ブルタンなど錚々たるメンバーが名を連ねています。
 

[Jardine Matheson Part 15]★ジャーディンのグループ企業その2 「デアリーファーム(2)」12/5更新

前回から商会している牛[女乃]国際(Dairy Farm International)ですが、株式的には怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)>香港置地(Hong Kong Land)>牛[女乃]国際(Dairy Farm International)です。
 
  ジャーディンにとっては孫会社となりますが、牛[女乃]国際が香港で経営している会社は半端ではありません。スーパーマーケットの「惠康(Wellcome)」。ここに行ったことのない香港市民は皆無でしょう。恵康よりアッパークラスの「Market Place by Jasons」もそうです。高級で有機栽培の食品を多く売る「3hreeSixty」もあります。コンビニエンスストアの「7-Eleven」は牛[女乃]国際がライセンスを持っていて、広東省、マカオ、シンガポールでも運営しています。
 
  ドラッグストアの「萬寧(Maninngs)」もここです。サプリメントなど世界最大の栄養補助食品販売会社の「General Nutrition Centers(GNC) 」の香港・マカオ市場は牛[女乃]国際が担当です。日本人にも人気の家具店「IKEA」も香港では同社による運営で台湾とインドネシアもやっています。
 
  そして、香港最大のレストラングループである「美心集団(Maxim's Group)」は50%の株を取得しています。この美心が抱える飲食店がこれまた凄く「Coffee Concepts(Hong Kong)」という会社を作って「スターバックス」をやっているほか、「元気寿司」、「東海堂(Arome)」もそうですし、「映月楼(Serenade)」、「翠園(Jade Garden)」など有名中華レストランも美心がやっています。 
 
  以下に、香港市民の生活に深く浸透していることが分かりますが、上の系列をスタバでさらに表現すれば、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)>香港置地(Hong Kong Land)>牛[女乃]国際(Dairy Farm International)>美心集団(Maxim's Group)>Coffee Concepts(Hong Kong)…つまり香港のスタバはジャーディンからみれば「4次請け」の企業という、資本関係を巧みに利用して運営する香港ならではの実態が浮かびあがってきます。
 

[Jardine Matheson Part 14]★ジャーディンのグループ企業その2 「デアリーファーム(1)」11/28更新

香港市民の生活に密着しているのが、牛[女乃]国際集団(Dairy Farm International Holdings)です。現在、18万人の従業員、6600の店、2016年の売り上げが200億米ドルという巨大小売りグループです。
 
  1886年にスコットランドの外科医、文遜(Patrick Manson)を中心とした5人の香港ビジネスマンが3万ドルの資本金で設立。牛乳を廉価で提供して香港市民に健康になってもらおうと薄扶林(Pok Fu Lam)に牧場を作って80頭の乳牛を飼育し始めたというのが始まりでした。中環(Central)の蘭桂坊(Lan Kwai Fong)のすぐ東に香港藝穗會(Fringe Club)や外国記者クラブがあるビルがありますが、最初は同社の倉庫として1892年に建設されたものです。事業は徐々に拡大し1899年にバターをオーストラリアに輸出。翌1900年になると豚肉や鶏肉、卵なども扱うようになります。
 
  1904年には下亞厘畢道(Lower Albert Road)に初の小売店を出すようになるまで成長します。1928年には1日あたり1000ガロンのミルクを製造するほか、アイスクリームなども手掛け、店も6店にまで拡大します。
 
  戦後の1964年になると1945年創業の恵康(Wellcome)を買収します。逆に1972年になると、前回書いた香港置地(Hong Kong Land)に買収されてしまいます。ただ、香港置地側は独立した経営を牛[女乃]国際に約束。実際、恵康の親会社が香港置地と認識している人は多くはないと思います。巨大な親会社がバックについたこともあるのか、薬局の萬寧(Maninngs)株51%を1976年に取得。過半数以上の出資比率と占め、傘下に収めます。1986年には親会社のジャーディン傘下だった美心食品(Maxim's Caterers)を吸収し、1989年になると同じくジャーディンの会社だった香港の7-Elevenを買収します。
 
  1990年代後半からは、台湾、マレーシア、スペイン、ニュージーランド、シンガポールなど外国でのビジネスをどんどん拡大しています。
 

[Jardine Matheson Part 13]★ジャーディンのグループ企業その1 「香港ランド」 11/21更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は巨大コングロマリットですが、実際にどんな企業があるのか紹介していきたいと思います。
 
  ジャーディンの香港での主なビジネスは、ホテル業の文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)、食品小売りやレストランなどの牛[女乃]国際(Dairy Farm International)、不動産の香港置地(Hong Kong Land)が3本柱です。特に香港置地は香港の歴史に深く関わっているので、今回は簡単に書いて別な機会に独立した形で書きたいと思っています。
 
  1889年に設立された香港置地…英語名がHong Kong Land=香港ランド…まさに香港の土地は俺のものと言わんばかりの社名ですが、所有している土地の質が凄いものがあります。まずは中環(Central)にある置地広塲(The Landmark)です。ここは香港市民であるならばブランドが入るモールとして知られていますし、ロビーにある噴水で待ち合わせをしたことがある人が多いと思います。
 
  置地広塲に連絡通路でつながっているのが遮打大廈(Chater House)です。ジョルジオ。アルマーニやアルマーニのレストラン&バーが入っています。
 
  交易廣場(Exchange Square)もそうです。在香港日本国総領事館ほかカナダ、アルゼンチンの総領事館が入居しているほか、香港証券取引所(HKEx)、アメリカに本社を置く世界的な法律事務所のレイサム&ワトキンス、1783年にロンドンで創業した総合不動産サービス会社のジョーンズラングラサールなどの企業が入っています。
 
  歴山大廈(Alexandra House)も同社が保有しているほか、無論、ジャーディンの本社ビルである怡和大廈(Jardine House)も香港置地が所有、管理しています。要は置地広場を中心とした周辺のビルはほぼ香港置地の所有と思って下さい。ほかにも北京、上海、マカオ、成都、ジャカルタ、ハノイ、バンコクなどにも商業ビルを多数抱えています。
 

[Jardine Matheson Part 12]★ジャーディンが所有する観光地 11/14更新

銅鑼湾(Causeway Bay)には怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)が開発した面がありますが、今は観光地になっているところもあります。それが、怡和午炮(The Jardine Noonday Gun)、日本語で「ヌーンデイガン」です。これは大砲のことで、毎日正午と1月1日零時に大砲を鳴らします。
 
  実は、皮肉な話でして、ジャーディンは1841年に東角(East Point)に倉庫を建設します(のちには家と庭も造ります)。今では想像もつかないと思いますが、東角はそごうなどがある一帯で当時は埋め立ててなかったので、東角は小さな半島といいますが、ちょっとした出っ張っていた場所で、その周辺は港でした。そこでジャーディンは自社の船が入港する時に職員が大砲を鳴らしていました。
 
  1850~60年代頃のある日、当時のトップであった羅拔渣甸(Robert Jardine)がイギリスから香港に戻って来た時、21発もの大砲を鳴らしました。当時のイギリスの海軍司令官は「祝砲は政府高官か海軍の船に使うべき」と腹を立てて、罰則としてジャーディンに毎日、正午の大砲を鳴らすように命じられました。それは日本軍が1941年に占領するまで続けられ、1947年8月から再開しています。
 
  ジャーディンは1989年から香港公益会(The Community Chest)に3万3000香港ドル以上をチャリティで寄付すると、個人的にこの大砲を撃つことができます。チャリティですので宣伝やプロモーションには使ってはいけないことになっています。
 

[Jardine Matheson Part 11]★創業者の名前にちなんだ通り名 11/7更新

銅鑼湾(Causeway Bay)には怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の創業者、威廉・渣甸(William Jardine)と詹姆士•馬地臣(James Matheson)の名前にちなんだ通りがあります。渣甸街(Jardine's Bazaar)は怡和街(Yee Wo Street)の南にある通りです。
 
  そもそも怡和街もジャーディン・マセソンの漢字の社名が絡んでいますが、それは同社が本社を広州から香港に移した時、この一帯に倉庫などを作ったためです。渣甸街は、手頃な値段で美味しく食べられるレストランが軒を連ねていまして、種類も日本食、西洋料理、中華料理と多種多彩。筆者も銅鑼湾で働いていた時はしょっちゅう、ランチを食べに来ていました。燈籠洲街市(Tang Lung Chau Wet Market)もあります。ただ、ここは香港屈指の家賃が高いエリアなので店の入れ替えが頻繁に起こります。地元香港人は、MTRが上環(Sheung Wan)から堅尼地城(Kennedy Town)まで延伸される前は、ここから出る赤いミニバスに乗るのが一般的でした。
 
  渣甸坊(Jardine’s Crescent)は渣甸街の南にある小道で、女性向けのファッションの露店がずらりと並んでいます。住所的にここで一番有名なのは京華中心(Capitol Centre)です。筆者が来た頃は、地下にゲームセンター、地階に佐丹(Giordano)や大家楽(Café de Coral)、上階には屈臣氏(Watsons)、豊澤(Fortress)、寿司店が入っていました。しかし、2010年に地下1階から地上4階までの6フロア5万3000平方メートルを、家賃1100万ドルでForever 21が契約したので、時代の流れを感じたことがあります。契約で毎年ちょっとずつ家賃があがって1380万ドルで借りていたのですが2017年8月31日に契約満了して延長せず、今度は2017年9月1日から27年8月31日までAmerican Beautyという会社が契約しました。この関連にはL Brands Internationalというのがあり、この傘下にあの「Victoria’s Secret」があります。正式な家賃は公表されていませんが、Victoria’s Secretは月700万ドルと約半額での契約になったようです。
 
  なお、5階から上のフロアは、クリニックがたくさん入っていて、多くの香港市民が訪れています。
  また、時代広場(Times Square)のすぐ東にあるのが勿地臣街(Matheson Street)です。それほど大きな通りではないのですが、時代広場への入り口への道ということで結構、交通渋滞が多く、タクシーが多く走る通りです。
 

[Jardine Matheson Part 10]★ジャーディンの創業者の1人、詹姆士•馬地臣(James Matheson)その3 10/31更新

1843年にパートナーの威廉・渣甸(William Jardine)が死亡し、詹姆士•馬地臣(James Matheson)は怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の名実ともにナンバーワンとなります。ジャーディンの甥であるDavid JardineとAndrew Jardineがマセソンをサポート。大班(Tai-Panと発音。外国人が創業した大企業の会長を指す言葉)としてイギリスから怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の経営をします。1840年代前半にリタイアするのですが、子どもがいなかったマセソンは、ジェームスの甥のDavidとさらに別のジェームスの甥に怡和洋行の経営を託します。もちろん、マセソンの甥たちも経営に深く関わっています。
 
  イギリスに帰国後は政治家としても精力的に活動していて、1843年からパートナーのジェームスの後を継いでAshburton市選出の国会議員となったようです。そして、1847年の総選挙からは地盤を変えてスコットランドのRoss and Cromarty(1983年にこの選挙区は廃止)から自由党の候補者として出馬して当選。1868年まで国会議員として活動をします。ちなみに1968年からは甥のAlexander Mathesonが地盤を継いでいます。
 
  ロンドンの家はセント・ジェームズ宮殿のすぐ西にあるCleveland Rowですが、1944年にはスコットランドの北西部にあるルイス島(緯度的にはモスクワより北にある)と約50万ポンドで島ごと購入して、そこにルイス城を建設しています。
 
  1878年にモナコ公国すぐそばにあるフランスの南西部、イタリア国境に近い、マントンで82歳の生涯を閉じます。
 
  パートナーのジェームスよりは記録が少ないのですが、アヘンを中国で売って莫大な富を築いたという事実には変わりはありません。
 

[Jardine Matheson Part 9]★ジャーディンの創業者の1人、詹姆士•馬地臣(James Matheson)その2 10/24更新

1827年の『広州記録報(The Canton Register)』から遡ること7年。1820年に詹姆士•馬地臣(James Matheson)は在広東デンマーク領事館の領事を務めることになります。当時は外国人が別の国の領事を務める事は特別な事ではなく、DanielとThomasのBeale兄弟は在広東ロシア領事に就任しています。
 
  そして、1932年7月1日に威廉・渣甸(William Jardine)と一緒に広州に怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)を設立します。甥であるAlexander MathesonとHugh Mathesonも一緒に入社させています。
 
  4年後の1936年、それまで貿易で培った中国貿易のことを書いた『Present Position and Future Prospects of Trade in China』を書籍化します。
 
  ウィリアムはアヘンを中心とした中国との貿易を拡大させたいですから、マセソンをイギリスに送り、イギリス政府に清朝に圧力をかけて、貿易拡大を促してもらうなどのロビー活動を繰り広げます。しかし、マセソンは侮辱されるなど失敗します辛い結果となります。マセソンは1938年に中国に戻り、その代わりに1939年にジャーディンがイギリスに向かいます。ロビー活動が成功して1840年にアヘン戦争がはじまり1842年に集結しました。
 
  同年に再びイギリスに戻り、翌1843年には瑪麗•波斯富(Mary Jane Perceval)と結婚します。妻の父はイギリスの第21代首相のスペンサー・パーシヴァルの非嫡出子でした。起業家はロビー活動の中でいろいろと政治家と出会って自社に有利なことをしてもらうようにしますが、非嫡出子であれ彼は親族として政治家と繋がります。
 

[Jardine Matheson Part 8]★ジャーディンの創業者の1人、詹姆士•馬地臣(James Matheson)その1 10/17更新

前回までは怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の創業者である威廉・渣甸(William Jardine)を紹介してきましたが、今回からはもう一人の創業者である詹姆士•馬地臣(James Matheson)について書いていきたいと思います。
 
  マセソンはジャーディンが生まれて12年後の1796年にスコットランドで生まれます。父はインドとの貿易船の船長をしていました。ジャーディンと同じエジンバラ大学で学び、卒業後は2年間は法律関係の仕事に従事します。その後、叔父がインドのカルカッタで創業したMackintosh & Co.という貿易会社に入社します。しかし、会社は倒産してしまいますが、原因は叔父だけではなく、マセソンも公文書の取り扱いを間違えるなど、ちょっと抜けていた部分があったようです。
 
  叔父はマセソンにイギリスに帰るよう提案したのですが、ここでマセソンは貿易船長である羅伯・泰勒(Robert Taylor)と出会い「広州に行かないか?」となり広州に向かうことになります。貿易会社に従事するイギリス人が広州でビジネスをするわけですから、アヘンを中国に売ることになります。
  なお、後のビジネスパートナーとなるジャーディンとは1920年にボンベイで出会い、広東からボンベイ、カルカッタをつなぐ輸送ビジネスの契約を結びます。のちにはさらにロンドンにまで延長されています。
 
  広州では、甥の亜歴山大・馬地臣(Alexander Matheson)と一緒にアメリカ人編集者を雇い、1827年11月8日に『広州記録報(The Canton Register)』という中国初の英字新聞を発行します。2週間ごとの発行で新聞のコピーをみると価格は50 Centsと書かれていました。
 
  この新聞は、中国とイギリスの関係悪化から、1839年にマカオに、1843年に香港に場所を移し、1863年に停刊するまで発行を続けました。
 

[Jardine Matheson Part 7]★ジャーディンの創業者の1人、威廉・渣甸(William Jardine)その4 10/10更新

威廉・渣甸(William Jardine)が清朝を離れると、清はすぐにアヘンの輸入を停止し、アヘンを没収。イギリスに戻ったジャーディンは早速ロビー活動を開始。そして、ジャーディンのPart 2とPart 3で書いたように政府要人、議員などを説得。1840年にイギリス政府にアヘン戦争を開戦させます。
 
  1841年、ジャーディンは庶民院(=下院議員)の選挙にホイッグ党(自由党と自由民主党の前身)から出馬して当選します。また、Part 4とPart 5で紹介した長年の友人である霍霊沃斯・馬格尼亜克(Hollingworth Magniac)がイギリスで銀行のビジネスをしていたのでそのパートナーとなります。ですが、翌1842年に体調を崩し(肺水腫にかかったと言われています)、寝たきり状態になります。甥のアンドリュー・ジョンストンが世話をしていました。
 
  59歳になった3日後に死亡します。アヘンなどで蓄財をしてイギリスでもっとも裕福な人でしたが生涯独身でした。結婚しませんでしたが、その代わりに兄の息子たちを良く可愛がり、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)のビジネスを助けます。
 
  医師が商人になり、中国でアヘンを売って、しかも利益の拡大のためにイギリス政府に戦争まで起こさせ、最後は国会議員で終わるという…帝国主義全盛とはいえ、波乱万丈の人生だったと言えるでしょう。
 

[Jardine Matheson Part 6]★ジャーディンの創業者の1人、威廉・渣甸(William Jardine)その3 10/3更新

順調にビジネスを拡大していた怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)。1841年には19艘のクリッパー船とよばれる大型帆船を所有していました。昔は中国からイギリスですと南アフリカの喜望峰を回るので1年半から2年かかったのですが、ウイスキーでも有名なカティサーク号ですと3、4カ月で運ぶことができたのです。しかもこのタイプの船は帆船ですから石炭がいらないので積載量も大きくなるという1石2鳥でした(その後、スエズ運河が開通しますが、同運河は無風なので蒸気船が主流となります)。その他にも何百もの船を抱え、貿易は順調そのものでした。
 
  ただし、当時は清朝側の貿易赤字ならぬ“銀赤字”で清朝の銀保有量は減る一方です。つまり清朝はアヘンの輸入額がお茶や絹などの輸出額より多かったことを意味します。そこで清朝は1930年代中盤からアヘンの流入を防ぐことを含め貿易のコントロールを始めます。威廉・渣甸(William Jardine)としては中国との貿易を拡大させたいですから、パートナーの詹姆士・馬地臣(James Matheson)をイギリスに送り、イギリス政府に清朝に圧力をかけて、貿易拡大を促してもらおうとします。マセソンはロビー活動を繰り広げますが、侮辱されるなど失敗します。ジャーディンは引退するつもりで、マセソンが会社の実権を握る準備をしていたこともありマセソンは中国に戻ります。ロビー失敗の報告を受けたジャーディンは引退を一時延期して本人自らがイギリスに乗りこむことを決断。1939年1月26日、約20年間住んだ中国を離れます。54歳でした。
 
  彼がイギリスに向かうという意味は、元々、引退をするつもりでいたことと、当時の状況としては現在のように飛行機で簡単に外国を行き来できないので、2度と中国には戻ってこないことを意味していました。送迎会はド派手に開かれたそうです。
 

[Jardine Matheson Part 5]★ジャーディンの創業者の1人、威廉・渣甸(William Jardine)その2 9/26更新

1801年に広州に設立されたイギリスのCharles Magniac and Coのトップである『霍霊沃斯・馬格尼亜克(Hollingworth Magniac)』からヘッドハンティングを受けて共同経営者となった威廉・渣甸(William Jardine)は、それまでの蓄えた知識を生かして事業を拡大していきます。そして、Charlesが死亡したこともありCharles Magniac and CoはCharlesの名前を外してMagniac and Coになります。
 
  ジャーディンとホリンワースは商人の詹姆士・馬地臣(James Matheson)も勧誘して、1827年に入社。あわせてマセソンの甥であるマセソンの甥である亜歴山大・馬地臣(Alexander Matheson) も入社します。ホリンワースは自分の株式をジャーディンとマセソンに譲り渡してイギリスに帰国します。2人は1932年7月1日に広州に怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)を設立します。シニアパートナーとして前述のホリンワースとアレキサンダーのほか、もう1人のマセソンの甥であるHugh Matheson、ジャーディンの甥であるAndrew Johnstone、さらにはJohn Abel SmithとHenry Wright)いう2人も加わった。
 
  業務はインド中部かのマールワー地方から清にアヘンの密輸をしたほか、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、イギリスには中国茶と絹を輸出しました。それに加え、積み荷用の保険業務、造船所設備と倉庫のレンタル、貿易金融など貿易に関するあらゆる業務をしていました。
  1934年にはイギリスの国会からイギリスと清の間の貿易取引の独占することを認められ、会社はさらに大きくなっていきます。

[Jardine Matheson Part 4]★ジャーディンの創業者の1人、威廉・渣甸(William Jardine)その1 9/19更新

怡和洋行(Jardine Matheson)の創業者の1人である威廉・渣甸(William Jardine)について書きたいと思います。
 
  ウィリアム・ジャーディンは1784年にスコットランド生まれ。7人兄弟だったが9歳で彼の父親がなくなったため経済的には厳しい生活を強いられた。1800年に16歳でエジンバラ大学医学部に兄の経済的援助を受けながら入学。解剖学や臨床学を専攻します。1802年に東インド会社に就職し、そこでは商船に常勤する医師として働きます。そう、船員の病気やけがをしたときに治療するというのが仕事でした。貿易会社らしいのは東インド会社は自分の貿易業務以外でも、個人で貿易を営む事が認められていて、約45キロ分までは自分の貿易をしたい荷物を船内に持ち込む事が可能でした。商売したい人は自分で商品を仕入れて販売してお金稼ぎをした船員もいれば、そういうのに関心がない船員もいました。幼少時にお金に苦労し、兄弟にも金銭面で助けてもらったジャーディンは、お金を稼ぐことの大事さを身にしみていました。そこで、ジャーディンは持ち込みをしない船員を口説いて自分の割り当てとして譲ってもらい、ある程度の金額を稼いだようです。
 
  この間に貿易のノウハウと人脈を作り1817年に東インド会社を退職して、医者ではなく個人の貿易商として生計を立てています。
 
  そんなジャーディンに転機が訪れます。1801年に広州に設立されたイギリスのCharles Magniac and Coは中国有数の貿易会社でジャーディンも良く取引をしていました。創業者のCharles Magniac が1823年にパリで死亡すると、Charlesの親のHollingworthと兄弟CharlesのDanielが内輪揉めをして、その結果はHollingworthがトップに就きます。その時、Hollingworthはジャーディンを共同経営者としてヘッドハンティングします。
 

[Jardine Matheson Part 3]★イギリスの黒歴史、アヘン戦争その2 9/12更新

怡和洋行(Jardine Matheson)の創業者の1人である威廉•渣甸(William Jardine)は、1939年に戦争をするための綿密な計画をパーマストン子爵に提出します。これは「Jardine Paper」と呼ばれる報告書で、地図、戦術、必要な兵士の数を書いています。また、「『艦隊は北京の近くまで迫り、皇帝に(清朝がイギリスに与えた)侮辱について謝罪するように直接に迫り、破棄させたアヘンの代金を支払わせる。公平な通商条約を結ばせ、厦門・福州、寧波、上海、もしできるなら潮州も自由に交易できるように開港させるべき」などと書かれています。このJardine Paperそのものは、今はみられないのですが、William Jardineこの案をパーマストン子爵に提出する前に、ほぼ同じ内容の手紙を怡和洋行の共同創業者、つまりパートナーである詹姆士•馬地臣(James Matheson)に送って内容についてのアドバイスを求めています。
 
  ウィリアム・ジャーディンがスマートだったのは、長年の中国との密貿易で当時人民の特徴や政治体制を良く把握していたことです。清朝とは満州人が漢民族を支配していた国で、イギリス艦隊を北京近くまで派遣して圧力をかければ、皇帝は清朝の維持ではなく保身に走ると踏んだからです。
 
  1840年6月28日に発生したアヘン千戦争はご存知通り、イギリスの圧勝に終わります。イギリスは清朝と1842年8月29日に「南京条約」とう不平等条約を結び、賠償金2100万米ドル、上海、広州などの5つの港の開港のほか、香港島の割譲となります。ここに現在の香港の繁栄の原点が誕生しました。
 

[Jardine Matheson Part 2]★イギリスの黒歴史、アヘン戦争その1 9/5更新

香港が経済自由度で何度も1位になったのは、イギリスがアヘン戦争で清朝に勝利して、香港を割譲し植民地化したことが始まりです。今の香港を考えると結果オーライですが、戦争の理由がアヘンを売るために起こしたという胸を張れないものです。“戦勝国”ですが大英帝国の誇りを持つイギリス人はまだ少なからずいますが、この話ばかりはさしものイギリス人に非常に話しにくそうです。事実、William Ewart Gladstone(1868年を皮きりに4度首相になる)という政治家は、当時の議会で(この戦争は)“most infamous and atrocious”(破廉恥で非人道的)と反対したくらいです。
 
  江戸時代の日本の鎖国では長崎のみで貿易を行っていましたが、実は、清朝のヨーロッパ諸国との交易は広東港のみに限定していました。イギリスは貴族に人気のあった紅茶が欲しく、中国から大量に購入していましたが貿易赤字でした。現実の貿易は、清朝から免許をもらった中国人商人とヨーロッパ人商人が取引していたのですが、なぜかインド産のアヘンはこの取り決めの枠外でした。麻薬は莫大な富をもたらしますので、イギリスの商人はアヘン密輸してそれを中国人のアヘン商人に裏で販売していました。もちろん、アヘンが市民にまん延し、中毒者が続出したほか、アヘンにより輸入が増えたので赤字に陥り自国の銀の保有量がどんどん減っていきました。
 
  当然、清朝政府はアヘンを禁止する強硬策にでます。するとイギリス本国は当時の外務大臣でのちの首相になるヘンリー・ジョン・テンプルことパーマストン子爵を中心に主戦論が高まり、イギリス議会は最終的に9票差で戦争を認めます。
 
  この戦争をした方がいいと説得をしたのが怡和洋行(Jardine Matheson)の創業者の1人である威廉•渣甸(William Jardine)です。
 

[Jardine Matheson Part 1]★いまの香港を作ることになったジャーディン 8/29更新

前回までは、香港経済に大きな影響をもつイギリス系の太古集団(Swire Group)のことを数カ月に渡り書いてきましたが、今回から書く怡和洋行(Jardine Matheson)は、太古とは比にならない位、香港に影響を良い意味でも悪い意味でも与えた会社です。今の香港を形作った会社といっても過言ではありません。しかも、日本にも大きな影響を与えています。
 
  中環(Central)の超一等地の丸い窓が印象的なビル(在香港日本国総領事館が入っているビルの道路を挟んで東側)の怡和大廈(Jardine House)がありますが、ここが、事実上世界中にある同社の本社機能がここにあります。
 
  次回以降から詳しく説明していきますが、関わりのある会社や人物がとんでもなくありまして、小生もどこから書いていこうか、どのような流れで書いていこうか悩むほどです。関わりを一部列挙すると、マンダリン・オリエンタルホテル、ワーフ、イケア、スターバックス、セブンイレブン、マニングス、アヘン、香港上海滙豊銀行(HSBC)、東インド会社、(コニャックの)ヘネシー、JPモルガンチェース、坂本竜馬、横浜…。Jardineの歴史を知っておけば、香港と日本の近代史をもより深く理解できるというコングロマリットと言っていいでしょう。
 
  では、タイトルに書いたように「今の香港を作ることになった」と書いたのは、怡和洋行が自分の利益のためアヘン戦争をイギリス政府にさせるように仕向けたからです。
 

筆 者 武田信晃
E-mail nobuwork@hotmail.com
略 歴 1996年大学卒業し、新聞社、週刊香港で記者・編集者として従事する。2005年に独立してフリーランスのライターとして活動を開始し現在に至る。香港の政治・経済を中心に執筆する一方、ミーハーな性格から香港映画・芸能、レストランなどのサブカルチャーの記事も守備範囲で08年には『ファーストフードマニア 中国・台湾・香港編』(社会評論社、共著)を刊行した。また、スポーツ好きで香港セブンス、マカオGPは必ず現場に足を運んで取材を敢行する。一方で、カナダ人デザイナーと女性向けバッグLiuciaを07年に設立。ビジネスにも携わることになりストレスをためこむ。また、相方は香港の血を引いているため、香港市民の友人を持つだけではわからない香港を知ることになりディープな原稿を書くことも可能。
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