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[Sun Hung Kai Properties Part 15]★香港史上、最大の汚職事件の1つに 11/20更新

香港政府で不正を専門に取り締まる廉政公署(ICAC)は2012年3月29日、同政府の、許仕仁(Rafael Hui)元政務長官と、新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)の共同会長を務める郭炳江(Thomas Kwok)と郭炳聯(Raymond Kwok)の3容疑者を賄賂防止条例違反などの疑いで逮捕したと発表しました。
 
  実はその数日前に、新鴻基地産の陳鉅源(Thomas Chan)執行董事が逮捕されており、彼が口を割ったことで彼らの逮捕出来たのではないかと思います。ICACはこれに関連して香港取引所(HKEx)の関雄生(Francis Kwan)元高級副総裁など合計8人を逮捕したことも明らかにしました。
 
  この逮捕を受けて新鴻基地産は郭炳江の息子、郭基煇(Adam Kwok)と郭炳聯の息子、郭顥[シ豊](Edward Kwok)を代理取締役に指名し、職員の動揺を抑える方策を講じます。プレスへの発表でも日々の業務には影響ないと、負の影響が広がらないよう必死でした。
 
  郭兄弟と許元政務長官は現在の香港国際空港建設プロジェクト推進の時に知り合ったようです。許許元政務長官は新鴻基地産のコンサルタントに就いたりしていました。許氏が2000年から2003年に金融管理局(HKMA)の総裁をしていた時は、新鴻基地産が建設した礼頓山という高級マンションに無償で住んでいました。そして、許氏が政務長官に就いた2005年6月30日の午前9時に470万ドルが振り込まれていたそうで、その数時間後に就任の宣誓をしていたといいます。上海にも愛人がいるなど派手な生活で、いろんな意味でかなりの“厚顔”な人間でした。
  逮捕の発表がされたころは、行政長官選挙の時期だったこともあり、報道はてんやわんやでしたが、新鴻基地産としてはそれで市民の視線が集中しなかったのはラッキーといえる状況でした。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 14]★長男が去り、次男、三男の2人態勢に 11/13更新

さまざまな背景があったとはいえ、2008年5月に事実上、家族に追い出された形となった郭炳湘(Walter Kwok)ですが、帝国集団という会社を設立し、これまで自身が培ってきたものを活かしてデベロッパー事業に乗り出します。
 
  香港小輪(Hong Kong Ferry。フェリー会社ですが、不動産開発もしている)と一緒に27億ドルを投じて屯門(Tuen Mun)の開発を行ったり、準大手デベロッパーの信和集団(Sino Land)と一緒に黄竹坑(Wong Chuk Hang)の商業エリアの開発したりもしています。
 
  さらには尖沙咀(Tsim Sha Tsui)の中間道(Middle Road)に海員倶楽部(Marina’s Club)というのがありますが、そこの再開発はホテルを含めた40階建ての高層ビルが建設される予定で(総事業費は60億ドル)、50年間のホテルの経営権を獲得するなど順調に実績を重ねていていました。郭炳湘が亡くなり、今後、会社およびプロジェクトがどのようになっていくのか、関心が集まっています。
 
  長男が新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)の経営陣からいなくなり、3人の母親である[廣β]肖卿が主席に就きましたが、母は2011年12月に次男、郭炳江(Thomas Kwok)、三男の郭炳聯(Raymond Kwok)権限を譲り、2人が経営を担うことになりました。とはいっても、母が主席にトップとはいえ実質2人が経営しており、兄が欠けてもそこはすでに強固な企業統治体制を築いているだけあって、事業に影響はほとんどありませんでした。しかし、この弟2人は再び香港社会に“狂騒曲”を巻き起こします。香港のナンバー2を巻き込んだ贈収賄事件を起こしたからです。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 13]★郭炳湘が主席の座から降り、トロイカ体制が崩壊 10/30更新

愛人の唐錦馨(Ida Tong)を2007年から新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)の業務につかせた郭炳湘(Walter Kwok)ですが、その後、取締役にまでさせようとします。これには、当然ながら2人の弟の郭炳江(Thomas Kwok)と郭炳聯(Raymond Kwok)はそのことに反対し兄弟の間に亀裂が入ります。
 
  翌2008年2月、新鴻基地産は「郭炳湘が個人的な理由から主席兼行政總裁を暫定的に務めず休暇をとり、弟の2人が代行して業務を行う」ということを発表します。5月5日になると弟2人は兄に対して会社で仕事をするのをやめてほしいと要求し、非執行董事なので日本的にいえば非常勤の取締役にすることを決めます。すると兄の郭炳湘はその決定は間違っていると5月15日に裁判に訴えます。その後、非難合戦や暴露話が出たりしたのですが、5月26日、新鴻基地産は董事会(=取締役会)を開き、正式に郭炳湘の主席兼行政總裁の地位を罷免し、非執行董事とすることを正式決定。主席の座は、なんと3人の母親である[廣β]肖卿が就くという事になりました。
 
  こうなって来ると、保有株が会社の力関係に影響を及ぼすので、2010年になると母親の[廣β]肖卿主導で郭家族の株のマネジメントをしている信託基金の組織改編をします。これまでは郭氏家族信託受益人として3人で19%を占めていましたが、それを3兄弟とその家族を別々にわけて、それぞれ6.36%の配分にする事にしました。ただし、弟2人の場合は「郭炳江“及”家人」なので「郭炳江“及び”家族」に分配されましたが、郭炳湘だけは「郭炳江“的”家人」=「郭炳湘“の”家族」と簡単に言えばより厳密に範囲を指定しました。Citibankがこの信託基金のアドバイザーをしているようですが、これは唐錦馨にはお金を一切渡さないようにするための方策でしょう。一方で、[廣β]肖卿にとっては長男にいろいろあっても自分の息子であることには変わりはなく、Citibankと話し合いながら妥協点を見つけた…ようは親心だったと思います。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 12]★郭炳湘が亡くなる 10/23更新

 新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)のPart 6で郭炳湘(Walter Kwok)が入院したということを書きましたが、10月20日、死亡しました。
 
  8月27日に自宅で倒れ、緊急搬送された律敦治醫院(Ruttonjee Hospital)の救急病棟に運ばれ救急手術を受けますが、すでに昏迷状態でした。その後、港安醫院(Adventist Hospital)に転院して治療を続けていましたが、主要器官が衰弱し、脳幹も死亡して、事実上、植物人間状態だったようです。病院側と家族が話し合いを行い、家族は20日午後に治療を停止する事に同意しました。死因はくも膜下出血と発表されました。
 
  彼の人生は、1代で大成した父親、郭得勝の長男として生まれ、間違いなくプレッシャーを受けてきた人生でした。そして、誘拐されたが、それが原因で家族不信に陥り、愛人の下に走る。さらには、その愛人を会社に引き入れたことで弟2人郭炳江(Thomas Kwok)と郭炳聯(Raymond Kwok)との不和が生まれ、家族とさらに疎遠になります。母親の裁定で新鴻基地産の株についても変更させられます。違う回に書きますが、最終的には独立して新しい会社を設立する状況に追い込まれ、そして病気で倒れます。昏迷状態にある自分自身の治療方針も、疎遠だった家族が治療を停止することに同意しました。
 
  彼の人生で楽しかったことはどの位あったんだろうか…と考えさせられる人でした。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 11]★郭炳湘の愛人が新鴻基地産の業務に携わる 10/16更新

誘拐から釈放されて、しばらくしたあと新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)のトップの1人として通常業務に戻った郭炳湘(Walter Kwok)。それ以後は、例えば、決算発表の場などでは3兄弟がそろって出席して記者の質問に答えるなど、見た目は順調でした。ところが、2007年に唐錦馨(Ida Tong)という女性が同社の運営に携わったことから新鴻基地産のみならず郭一家を大騒動に巻き込むことになります。なぜなら彼女は郭炳湘の愛人だったからです。
 
  郭炳湘と唐錦馨が知り合ったきっかけがこれまたはっきりしないといいますか、報道によると2つに分かれています。1つ目ですが、香港の大手新聞、「東方日報(Oriental Daily)」によると、彼女は郭炳湘の妻である李天穎が元々知り合いで、ある時に夫である郭炳湘を紹介したというものです。もう1つは、「蘋果日報(Apple Daily)」によると、2人は小さいときからの知り合いで、お互いに恋愛感情を持ってから40年に亘るとしています。ただ、郭炳湘の父で、新鴻基地産の創業者の郭得勝は2人の関係を認めず分かれさせられます。その後、郭炳湘は今の妻である李天穎と留学先のイギリスで知り合い付き合い始めますが、郭炳湘は父親が見つけてきたスタンフォード大出身で香港上海匯豊銀行(HSBC)で働いていた顧芝蓉(Lydia Kui)と結婚させられます。しかし、半年で離婚し、その後、李天穎と結婚します。一方、唐錦馨は医者と結婚し、後に離婚します。
 
  どちらの報道が正しいのかは本人に口から語られないと分かりませんが、2人ともスキーやゴルフが好きというアウトドア派という共通点があった事も大きな要因でしょう。
 
  いずれにしろ、誘拐が2人を再び引き合わせたようです。そして、前回書いたように、誘拐された後、あまり家族を信用できなくなった郭炳湘は徐々に唐錦馨に頼るという状況になりました。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 10]★郭炳湘の誘拐がトロイカ体制崩壊の原因に 10/09更新

順調だった長男、郭炳湘(Walter Kwok)、次男、郭炳江(Thomas Kwok)、三男の郭炳聯(Raymond Kwok)による新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)のトロイカ体制は現在は崩壊しています。その原因は1997年に長男の郭炳湘の誘拐です。
 
  香港はデベロッパーの幹部はすさまじいお金を稼ぐため身代金目的の誘拐があり、郭炳湘だけでなく、長江和記実業(CK Hutchison Holdings)と不動産大手の長江実業集団(CK Asset Holdings)のトップであった李嘉誠の息子、李沢鉅(Victor Li)、同じくデベロッパーの華懋集団(Chinachem Group)創業者の王德輝(Teddy Wang)も誘拐されています(彼はいまだに失踪中で裁判上は死亡扱いになっています)。
 
  郭炳湘と李沢鉅を誘拐したのは張子強という同一人物でした。彼はマフィアのトップで、このようなあまりに派手で凄いことをしているので張子強に関連する話は何度も映画化されています。張子強は1997年9月29日に深水灣道(Deep Water Bay Road)にある彼の自宅前で誘拐し、新界(New Territories)にある家に軟禁されます。木箱のような小さな檻に押しこみ、裸にされ、最低限のご飯を提供されます。
 
  そして、張子強は郭炳湘に家に電話をするように言いますが郭炳湘は拒否。すると張子強は暴力を振るい始めて強要します。ついに郭炳湘は妻に電話し、張子強は身代金20億ドルを要求します。妻と弟2人は支払いを拒否しますが、暴力を振るう状況もあり6億ドルを支払うことで合意します。10月3日に支払いが行われ翌4日に彼は釈放されます。
 
  これは郭炳湘に肉体的へのダメージだけではなく、精神的にもうつ病になってしまい回復に1年を要しました。また、これが決定的だと思いますが、家族が身代金を値切る交渉をしたことで自分が開放されるのが遅れた…と考え家族に不信感を抱き始めてしまいます。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 9]★第1世代とは違う形のトロイカ体制に 10/02更新

馮景禧、李兆基、郭得勝の3人によるトロイカ体制が前者2人の独立により郭得勝1人が率いる態勢になった新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)ですが、すでに会社組織としては強固なものを誇っており、2人が抜けても会社がぐらつくことはありませんでした。
 
  中華系の人々は家族のつながり、同族意識、同郷意識が今でも強いのはご存知かと思います。そして香港では年金制度が2000年までなかったこともあり老後は子どもが世話をするものという考えが強くあります。小生の香港人の知り合いが「子どもは若いうちから多めに産みたいわ。そしたら老後が安心だもの」…この言葉が香港社会を表していると思います。郭得勝は1990年に心臓病が原因で亡くなりますが、その後を、長男、郭炳湘(Walter Kwok)、次男、郭炳江(Thomas Kwok)、三男の郭炳聯(Raymond Kwok)という3人の息子が共同で会社を統治することになりました。形は違えど自分自身と同じ3人によるトロイカ体制による企業統治というのは、何か運命的なものを感じさせてくれます。
 
  郭得勝は自分が死ぬ時、会社の行方にはほとんど憂いがなかったでしょう。息子を海外留学させたほか(基本的に土木関係と企業管理を専攻させます)、息子たちの年齢は30代後半から40歳でビジネス経験もそれなりに積んでいたからです。
 
  事実、3兄弟によるトロイカ体制は基本的に順調で経済誌『フォーブス』でも3兄弟は香港で李嘉誠につづく2番目にお金持ちとして常にランクインしていました。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 8]★新鴻基地産を仕切る郭ファミリーその2。先見の明から一気に不動産業界大手にのし上がる 9/18更新

郭得勝、李兆基、馮景禧の3人によって1963年に設立された「新鴻基企業」は不動産にまい進していましたが、1965年は香港の金融不安が起こったりして経済は減速し、土地の価格は低迷していました。しかし、必ず不動産価格は元に戻ると確信していた3人は、安値でたくさんの土地を買いまくり、その後、約3年間で20棟のビルを建設します。彼らの読み通り香港経済は再び回復基調に乗り、加えて1966年頃から文化大革命で香港に大量の移民が押し寄せてきたこともあり、不動産需要が高まって会社は加速度的に大きくなっていきました。その勢いからこの3人には「三劍侠」というニックネームがつけられたほどです。
 
  1967年になると盟友の1人、馮景禧は一家でカナダのバンクーバーに移民しますが、馮景禧は子どもを残してすぐ香港に戻り事業を継続します。1969年になると,金融に専門的な強みを持つ馮景禧は「新鴻基證券」と「新鴻基財務」を作り、金融の道に進みます。それと同時に「新鴻基公司(Sun Hung Kai & Co.)」も設立されます。
 
  1972年7月14日、新鴻基企業は組織改編を行い「新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)」として出発します。
  そして、上場によって巨額の富を得た李兆基は独立して新しい会社を作ることを選択。残った郭得勝が新鴻基地産を1人で仕切ることになります。トロイカ体制はバラバラになりましたが、馮景禧は「新鴻基證券」など別会社を設立しても「新鴻基」の名前を使っていますし、李兆基は今でも新鴻基地産の副主席兼非執行董事と努め、経営には直接携わってはいませんが、郭得勝の後を継いだ自分の盟友の息子である郭炳聯(Raymond Kwok)にアドバイスを送っているようです。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 7]★新鴻基地産を仕切る郭ファミリーその1。創業者の1人郭得勝はYKKとも関係あり 9/11更新

新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)の創業者の1人である郭得勝は1911年にマカオで生まれ、広東省石岐(現中山市)で育ちます。実家は雑貨の卸売会社を経営し、彼は小学校を卒業すると父を助けます。その頃から抜群の記憶力があったと言われています。その後、家族は第2次世界大戦後に香港に移住して来ます。
 
  一家は、中国本土での経験を生かして、上環(Sheung Wan)に「鴻興合記雜貨店」という雑貨や工場で使われる各種材料の卸売りを行います。ここで、父の背中を見ながら経営を学び、店にも出ていたようで接客の仕方も覚えています。1952年になると「鴻昌進出口」という貿易会社を設立して洋モノの商品を専門に扱います。香港のみならず、マカオ、東南アジアにも広がったことから「洋雑大王」と言われるまでに成長します。業務内容の拡大に伴い店の名前を「鴻昌百貨批發商行」として日用雑貨と工場向けの原料販売に力を入れます。1950年代後半になると、当時アパレル産業が発展していたこともありYKKのジッパーの独占販売権を獲得により売り上げを伸ばしていきます。 
 
  また、1958年になると郭得勝、後の恒基兆業地産(Henderson Land Development)の創業する李兆基、馮景禧ら8人で「永業」を創業し不動産業界に進出します。1963年になるとこの3人は事実上、独立する形で「新鴻基地産」の前身となる「新鴻基企業」を設立します。100万ドルずつ出資して、郭得勝が主席、李兆基と馮景禧の2人は副主席に就きます。名前の由来は「新」は馮景禧がすでに持っていた会社の「新禧」、「鴻」は郭得勝の会社「鴻昌百貨批發商行」から、「基」は李兆基の基から1字ずつとったという、わかりやすい名前をつけました。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 6]★2代目トップで、その後独立した長男が入院!9/4更新

香港第2のデベロッパーである新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)の2代目のトップで、現在は帝国集団(Empire Group)を率いている郭炳湘(Walter Kwok)主席が8月27日に自宅で倒れ入院したというニュースが流れ香港中がビックリしました。
 
  報道によると21時ごろに深水湾(Deep Water Bay)の自宅に戻り22時ごろの食事。22時45分ごろは邸宅内を歩いていました(散歩できるほど大きい家です)。23時45分ごろ同氏の家で働いている人(たぶん家政婦)が倒れているところを発見。呼びかけにも無反応であったためすぐ警察に通報します。3分後の23時38分、警察が到着。こん睡状態であることから救急車で湾仔(Wan Chai)にある律敦治醫院(Ruttonjee Hospital)の救急病棟に運ばれ救急の措置をうけました。その後、郭氏の家族が港安醫院(Adventist Hospital)に行く事を希望し、そちらに移り現在も入院しています。
 
  医者は、心臓または脳に血栓ができて血管がふさがり、心拍数が弱まり、それと並行して脳への血液が不足し倒れた…もしくは同時にそれが起こった可能性があるとしています。
   状況は厳しくこれから1カ月間が大事だそうで、それを脱すれば3カ月から6カ月くらいで回復するだろうとしています。
 
  この郭炳湘は父親から引き継いだ事業を弟と2人で協力して事業を拡大させて来ましたが、97年に誘拐されたり、それが原因でうつ病になったり、会社の経営でお家騒動がおこったりしました。そういうことで、次回から、郭家について書いていきたいと思います。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 5]★工夫したモール作りがされている「圓方(ELEMENTS)」 8/28更新

ショッピングモールの「圓方(ELEMENTS)」は、香港鉄路(MTR)が81%、デベロッパーである新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)が19%の権益を持つ2007年11月に開業したショッピングモールです。大きさは4フロア、100万平方フィートという巨大です。
  地球を形づくる5大要素=エレメンツというのがありますが、それをヒントに、「火(Fire)」、「土(Earth)」、「水(Water)」、「木(Wood)」、「金(Metal)」というテーマで各セクションが作られ、そこに約220の店があります。
 
  開業に先立ち、少し誤算と言いますか不運な面もあったと思います。それは2018年9月23日に開通が決まった香港と中国本土を結ぶ高速鉄道の「広深港高速鉄路(Guangzhou-Shenzhen-Hong Kong Express Rail Link)」の客を取り込むことを期待して作られたからです。従来、高速鉄道は2015年に開通予定でしたから、3年もずれ込むことになったのです。新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)は不動産収入について、進出した店にとっても売り上げ予測を間違いなく修正したと思います。
 
  中国人を取り込むということで、店のラインナップとレストランは充実していますし、アイスリンク、シネコンを作るなど全部入りのシッピングモールにしたことです。特に考えられたのは、有名ブランドのエリアは2階建ての構造にした点です。ちょっとした旗艦店のような感じになりました。オープン当初は隣接する「環球貿易広場(ICC)」すらできていないので、このブランドのミニ旗艦店だけが客を引き付ける唯一のもの…と言っていいくらいでした。
 
  ICCの開業に合わせて、その入り口に「金」ゾーンがオープン。ここにほとんどの有名ブランドを移して、ICCに作られた展望台とセットで観光客の取り込みを行っています。
  そして9月23日の高速鉄道開業後は、中国人を中心とした大勢の観光客が訪れると予想されており、圓方は本当の意味での通常営業が開始されるということになります。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 4]★展望台を作ったICC 8/21更新

ビクトリアハーバーを挟んだ中環(Central)の国際金融中心(IFC)の反対側=北西部には2010年完成の環球貿易広場(ICC)という高層ビルがあります。高さ484メートルは香港で最も高いビルです。ビクトリアバーバーの東西から入って来る船にとっては、国際金融中心2期(2IFC)とICCがちょうど2つの巨大な灯台のようか感じに見えるようです。このビルを建設を主導したのも新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)です。
 
  このビルには2IFCにはなかった展望台「天際100(Sky 100)」が作られたことです。実は2IFCの取材をしたとき工事現場の監督に「2IFCには展望台を作らないのか?」と聞いたら「作らない。オフィススペースだけ」と回答してきました。ニューヨークの高層ビル群の多くは展望台があるから次の高層ビルは展望台を作ったほうがいいと思う」と言いました。小生の意見が取り入れられたとは全く思いませんが、ICCに展望台が設置されたことは香港観光には非常に良かったのではないでしょうか? あそこには、オフィススペースだけではなく、最高級ホテルのリッツ・カールトンがわざわざ中環から引っ越してきた位ですし、そこにある「Ozone」は世界一高い所にあるバーとして宣伝する事が出来ました。また、ショッピングモールの「圓方(ELEMENTS)」は、アクセスがあまり良くないハンデを乗り越えるためによく考えられたモールなので、つぎはそちらについて書きたいと思います。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 3]★飛行機テロでも崩壊しない2IFC 8/14更新

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件は世界中に大きな衝撃を与えました。特にワールド・トレード・センター(WTC)の崩落はショッキングな出来事でした。
 
  中環(Central)にある国際金融中心2期(2IFC)は2003年に完成したのですが、新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)が建設を担いました(実際にはその関連会社)。小生はその工事現場を取材した事があります。その時の工事担当者は「もし飛行機が突っ込ん出来ても崩落することはない」と話していました。なぜでしょうか? WTCは鉄骨の柱を組み合わせることで建設されていました。しかし、IFCはビルの中心にコアというのがあります。それは鉛筆の芯のようなものといえばわかりやすいでしょうか。ですので、飛行機が突っ込んでもコアで完全に止まってしまうほか、ジェット燃料が燃えて鉄骨の強度が弱まってもコアがビルの外壁を支える形になっているからです。
 
  また、コアと外壁は自動車のサスペンションのような構造で支え合っています。スキーで例えるなら、コアが自分の体で、サスペンション部分が腕、外壁がストックという構造です。これは台風対策でいかに強風を吸収するのかを考えて設計されたのです。
 
  当時、JFEホールディングスもビルの建設を担っていて日本人のエンジニアの人も働いていました。何百枚という設計図があり、結構、設計変更があるので大変だと話していました。
 
  また、IFCやそのショッピングモールを作るときに基礎をつくるため土をどんどん掘り起こしていきますが、それは香港ディズニーランドの埋め立てに使われています。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 2]★SARS対策を施した初のマンション、YOHO Town 8/7更新

2003年、香港は重症急性呼吸器症候群(SARS)の流行に苦しみました。その原因ですが、香港のマンションならではの構造が被害を拡大させたからです。台所を含めほとんどの水の配管はU字になっているのはU字の底の部分に水をためることで、ゴキブリやネズミの侵入を防ぐことと臭気の侵入を防ぐ効果があります。それは細菌などが飛び散らない事も意味します。
 
  しかし、香港は多くの配管がU字いなかったり、水が干上がりやすい構造になっていました。SARSの拡大がひどかったのは MTR九龍湾(Kowloon Bay)駅に隣接する淘大花園(Amoy Garden)で321人もの感染者が出ました。発生数の41%がE座からで、部屋番号でいいますと各階の8号室が73%に達しました。つまり管でつながっているE棟の8号室の住民が多くSARSに感染したからでした。
 
  そこで当時、元朗(Yuen Long)の駅近くに建設中だった新時代広場(YOHO Town)は、U字の配管にしたりすることで飛沫感染を防ぐ対策を行ったというわけです。新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)も必死だったと思います。いまでこそYOHO Townのおかげで駅前は発展していますが、それまでは更地であまり開発されておらず魅力的な場所とまではいいがたいところでした。その上にSARSとなって経済が落ち込んだわけですから、売るためにはあらゆる方策をとったと言う事だと思いますが、その機敏な対応が新鴻基地産の評価につながった事は間違いないと思います。
 

[Sun Hung Kai Properties Part 1]★香港第2のデベロッパー 7/31更新

今回からは香港2のデベロッパーである新鴻基地産(Sun Hung Kai Properties)を取り上げたいと思います。デベロッパーですから、オフィスビル、高層マンションから、携帯電話のキャリア、スーパーマーケット、ホテルなど他のデベロッパーと同じく多彩な事業を展開しています。
 
  創業者とそのパートナーの話も面白いですし、後を継いだ三兄弟は喧嘩兄弟を起こしますし、そんなことしたと思ったら3人のうち2人が贈賄で逮捕されるなど波乱に満ちている一家でもあります。
 
  その一方で、贈賄事件があったものの、経営としては結構、堅実です。また、「長江和記実業(CK Hutchison Holdings)」を率いた李嘉誠のように派手な買収などはあまりせず企業としてはそれほど大きな話題を振りまいたというところはありません。
 
  昔、準大手のデベロッパーに勤めていた日本人の方に話を聞いた時、4大デベロッパーが建設したマンションの中で質が最も高いと感じるのは新鴻基地産の物件だと言っていました。そう言う意味で安心感があるのは同社が手がけたもののようです。実際、小生も物件に関して、新鴻基地産が評価されることを実感できたことが2回ほどあります。それが元朗(Yuen Long)に建設したマンション群の新時代広場(YOHO Town)と国際金融中心2期(2IFC)の建設現場を取材した時でした。次回はYOHO Townについて話したいと思います。
 

筆 者 武田信晃
E-mail nobuwork@hotmail.com
略 歴 1996年大学卒業し、新聞社、週刊香港で記者・編集者として従事する。2005年に独立してフリーランスのライターとして活動を開始し現在に至る。香港の政治・経済を中心に執筆する一方、ミーハーな性格から香港映画・芸能、レストランなどのサブカルチャーの記事も守備範囲で08年には『ファーストフードマニア 中国・台湾・香港編』(社会評論社、共著)を刊行した。また、スポーツ好きで香港セブンス、マカオGPは必ず現場に足を運んで取材を敢行する。一方で、カナダ人デザイナーと女性向けバッグLiuciaを07年に設立。ビジネスにも携わることになりストレスをためこむ。また、相方は香港の血を引いているため、香港市民の友人を持つだけではわからない香港を知ることになりディープな原稿を書くことも可能。
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