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[Jardine Matheson Part 42]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その11 7/10更新

前回、1994年に主要企業の香港上場を廃止したと書きましたが、その時、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)のトップは、文禮信(Alasdair Morrison)でした。1971年に香港に移り、その後ジャーディンに貨物関係の実習生として入社します。1980年代にフィリピンのトップを務めたり、1988年に香港置地(Hong Kong Land)のマネジング・ディレクターになったりします。そして1994年にジャーディンの大班となりました。1997年のアジア金融危機の乗りきるなどの手腕を見せます。ただ、中国政府との関係改善を図ったり、自分が香港の上場廃止したりしたにも関わらず、再び香港上場を画策したので、ケズウィック一家から首を2000年に言い渡されます。
 
  後任には、Henry Kewickの姉で、彼女が夫であるAnthony M. Weatherallとの間に生まれたPercy Weatherall(1957年~)です。ケズウィック一家に関係があることを分かりやすくするためにEdward Percy Keswick Weatherallと名乗る時もあります。1976年に入社して2000年から2006年までトップを務めます。
 
  2006年から2012年は黎定基(Anthony John Liddell Nightingale)がトップになったりして戦後は、紐璧堅(David Newbigging)や文禮信(Alasdair Morrison)を含め必ずKeswick家出身の人がトップに就くというものはなくなりました。それは少数株でもジャーディンを支配できるという資本構造がある安心感からもあるでしょう。そして、ケズウィック家に適任者がいないのなら、一家のメンバーの中で適任者を育てるまでの橋渡し役的社長を雇える状況にもなったとも言えます。
 
  そして2012年に帝王学を授けられた西門・凱瑟克(Simon Keswick。1972年~)の息子Ben Keswickが大班に就任。大政奉還がなされ、現在に至ります。
 

[Jardine Matheson Part 41]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その10 7/3更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の経営危機によって急遽、トップに就任した西門・凱瑟克(Simon Keswick)ですが、中英交渉がまとまる前にジャーディンの登記を1984年3月にバミューダ諸島に移すことを発表します。これが前任者の紐璧堅(David Newbigging)に続く失敗でした。というのは、ジャーディンが香港を見限ったと判断されてジャーディン株が15%以上下がったのです。戦後、中国が社会主義国家になったことでジャーディンは上海から撤退して香港に居を置かざるを得なかったという歴史と、過去にアヘンで儲けて大きくなったことから香港が中国に返還された後、中国政府からいろいろと言われるのを恐れた可能性があると思います。
 
  1984年12月、中英交渉が終わって香港の中国返還が決まり1997年から「1国2制度」が始めることが決まります。引き続き債務を圧縮する必要がある香港置地は傘下の香港電灯(Hong Kong Electric)は格安で李嘉誠率いる長江実業に買収されることになりました。これはまずいと判断したケズウィック一家は、香港置地(Hong Kong Land)も狙われる、ひいてはジャーディンまで買収されかねないと考えて、ジャーディンをさらにJardine Strategic Holdingsと言う1986年会社を作り、組織防衛を図って用意に買収されないようにします。
 
  Part 32に資本構成を書きましたが、複雑な資本構成のおかげで李嘉誠や他の企業から買収をされる恐れは減りました。一連の出来事によほど懲りたのか1994年には香港置地、文華東方酒店(Mandarin Oriental)などは香港証券取引所での上場を廃止してシンガポールの取引証券所に上場。香港企業が買収を仕掛けるのをさらに防ぐ手立てをしています。
 

[Jardine Matheson Part 40]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その9 6/26更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の傘下であった九龍倉集団(Wharf Holdings)を長江実業のトップであった李嘉誠が狙いましたが、紆余曲折の結果、環球航運集団(World Wide Shipping Group)のトップでHSBCの社外取締役の包玉剛(YK・パオ)がワーフ株を引き受けることで落ち着きました。
 
  ワーフがYK・パオの傘下に渡りましたが、もう1つの基幹企業、香港置地(Hong Kong Land)のトップでジャーディンのトップでもある紐璧堅(David Newbigging)は失策を埋めようと不動産相場が好調であったことを利用してどんどん土地を買いまくって行きます。分かりやすいのは1982年に中環(Central)にあった15万平方フィートの土地でそこには日本国総領事館が入っている交易広場(Exchange Square)などが建てられました。他にも企業買収も仕掛けます。
 
  同年9月、イギリスのサッチャー首相は中国を訪問して最高指導者、[登β]小平と香港の返還交渉を行います。その結果は、イギリスの統治の延長交渉は難航し(後に延長不可になり1国2制度となります)、先行きに懸念を示した不動産市場は一気に下落します。その結果、不動産価格は暴落して、多額の借入金も抱え込み、香港置地は150億から160億ドルもの多額の債務が発生した上に1983年度は16億ドルの赤字に転落します。こうなると債務の返済のために子会社を売って行きます。債務超過に苦しみ優良子会社も売却せざるを得なかった東芝と同じ状況です。
 
  その結果、翌1983年にNewbiggingは責任を取ってジャーディンや香港置地のトップを辞任し、後任にはHenry Kewick(1938~)の4つ下の西門•凱瑟克(Simon Keswick。1942年~)が就任します。ケズウィック家としては、いつかはトップをケズウィック家に大政奉還させる予定だったのでしょうが、まさに野球の投手の臨時登板のようにSimonが立て直しを図ることになりました。
 

[Jardine Matheson Part 39]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その8 6/19更新

John "The Younger" Keswick(1906年~1982年)の次は、William Johnston 'Tony' Keswickの子どもであるHenry Kewick(1938~)です。彼からは2018年6月19日現在ですが生存している世代に入って行きます。ヘンリーと言う名前は3代前に怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)のトップを務めたおじいちゃんのHenry Keswick(1870-1928年)と奇しくも同じです。
 
  “新世代”Henryは1938年に上海に生まれます。イギリスで教育を受けた後、1961年にジャーディンに入社します。2年後、彼のジャーディンでの最大の貢献とも言えるのは中環(Central)に最高級ホテルの1つ文華酒店(The Mandarin)を創業させたことです。同ホテルはのちに文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)となり、ジャーディンにとってあっという間に中核事業となります。Henryは1972年にはチェアマンとなり1975年に別の人に譲ります。
 
  そのヘンリーの後を継いだのはなんとケズウィック家ではなく、紐璧堅(David Newbigging)という1934年に天津で生まれたイギリス人でした。彼がジャーディンに入社したのはHenryより早い1954年でその後、順調に出世して、上記のように1975年にHenryの後任としてチェアマンになりました。主席職は1983年まで続けた他、基幹企業である香港置地(Hong Kong Land)のチェアマン兼マネジング・ディレクターであり、香港上海匯豊銀行(HSBC)、香港電灯(Hong Kong Electric)、香港電話(Hong Kong Telephone)のディレクターなども行っていました。
 
  就任期間中のジャーディンは連載のPart 31にあるように、同社の傘下にあった九龍倉集団(Wharf Holdings)の買収劇のころです。Newbiggingは香港の時代背景により経営が大変な時期ではありましたが、中華系財閥として飛ぶ鳥の勢いであった李嘉誠率いる長江実業によってジャーディンを追い込まれることになります。
 

[Jardine Matheson Part 38]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その7 6/12更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は現在、凱瑟克(Keswick)ファミリーが統治していることを書いていますが、今回はJohn "The Younger" Keswick(1906年~1982年)について書きます。彼は前代で兄のWilliam Johnston 'Tony' Keswickの3つ下の弟です。時期的に特に太平洋戦争の時代に生きた人なので、会社経営だけではなく、政治にも関与する大班として生き抜いてきました。
 
  彼は1929年にジャーディンの上海支店で働き始めます。年齢を考えると、大学を卒業してすぐジャーディンに入社したと言うことでしょう。国民党とも関係が深く「宋家の3姉妹」の兄で国民党の幹部あった宋子文や蒋介石の奥さんとも仲が良いことでも知られています。1941年8月に蒋介石がChina Commando Groupという奇襲部隊のようなものの創設を認めるのですが、この3人が関与していきます。なおChina Commando Groupの実質的な後ろ盾であったのは、イギリスの特殊作戦執行部(Special Operations Executive、 SOE)でした。
 
  真珠湾攻撃を受けた時John "The Younger" Keswickは、当時滞在していたロンドンから重慶に飛び、中華民国におけるイギリスの戦時経済省(Ministry of Economic Warfare)の代表者とイギリス大使館の一等書記官にも就任します。戦時中になると彼はChina Commando Groupの実質的なトップにもなります。ただ、途中から蒋介石とJohn "The Younger" Keswickは関係が悪くなり、その結果China Commando Groupは国民党とは別な組織として活動するような感じになります。
 
  戦争が終わり国民党が台湾に敗走して1949年に中華人民共和国ができると、ジャーディンは上海にあった全ての機能を香港に移動させます。香港で経営者として活動するほか、ジャーディンのトップは香港の議員になったりするのは過去の大班と同じで、1953年に大班を退くとロンドンに戻り、ロンドンのジャーディンの会社であるMatheson & Coに参加するという“慣例”を踏襲しています。ただ、1970年から72年にも香港のジャーディンの代表権のないチェアマンをやったりしています。1972年にイギリスと中国が国交が完全回復して経済交流が始まると1973年には周恩来首相と会談までしています。
 

[Jardine Matheson Part 37]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その6 6/5更新

凱瑟克(Keswick)ファミリーが統治を始めた怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は、耆紫薇(William Keswick)→12歳年下の弟のJames Johnstone Keswick→ウィリアムの長男であるHenry Keswickと引き継がれてきました。
 
  ヘンリーは息子であるWilliam Johnston 'Tony' Keswickは1903年に横浜で生まれます。ヘンリーの教育方針でヘンリーが香港でトップを務めている間も含めイギリスの教育を受け1926年に再び極東に戻ってきました。そして、ジャーディンの上海支店で勤務し、1934か1935年ごろに大班に就任(当時は上海に本社機能があった)。1941年まで務めました。 
 
  辞めるまでのトニーは上海市議会の議長も務めていました。1941年1月23日に開かれていた上海市議会の中では、70歳の日本人で上海議会の議員を務めていたYukichi Hayashi(漢字が不明で、どうやら日本軍人のようです)と言う人が、税金についての法律を改正したいと訴えました。しかし、議長であるトニーがそれを退けます。怒ったHayashi議員は32口径のリボルバーを2発トニーに向けて発射しますが、幸い、けがは軽傷で済みました。横浜生まれの彼が日本人に打たれると言う当時の歴史を思わせる出来事です。
 
  戦争が始まると、イギリス軍に参加。ノルマンディー上陸作戦で重要な役割を果たした「21st Army Group」というところの金庫番を務めています。戦後はその4でも紹介したイギリスの国営企業「Hudson’s Bay」のトップや、イギリスの中央銀行であるイングランド銀行のディレクターなども歴任しています。
 

[Jardine Matheson Part 36]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その5 5/29更新

耆紫薇(William Keswick)は1859年から1862年まで怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の横浜支店長でしたが、彼には12歳年下の弟のJames Johnstone Keswickがいました。James Johnstone Keswick は1845年生まれで、1870年に来港しジャーディン・マセソンで働きます。そして、1875年8月に来日し1876年1月まで日本を仕切ります。その後は、具体的なことは不明ですが1880年に上海に戻るまで日本に滞在を続けていますがその時に、1865年から1883年まで18年に亘って駐日英国公使を務めたHarry Smith Parkesの長女であるMarion Parkesと1884年に結婚しています。
 
  もちろんジャーディン・マセソンの大班になるほか(いつからトップになったのかは不明でイギリスに帰る1896年まで務めます)、1889年になるとジャーディンの中核企業として成長していく香港置地(Hong Kong Land)の前身となる会社をPaul Chaterと一緒に創設します。彼も立法局と行政局のメンバーであり、香港總商会(Hong Kong General Chamber of Commerce)のトップにも立ったことは言うまでもありません。また、香港上海匯豊銀行(HSBC)においてはチェアマンにも就任しています。
 
  その後に続くのが、自身の子どもではなく兄ウィリアム・ケズウィックの子どもであるHenry Keswickです。1870年に上海で生まれ1893年から95年までジャーディン・マセソンのニューヨーク支店で修行し同年に来港します。そして後に大班に就任します。こちらもご多分にもれず父のウィリアム、叔父のジェームス・ジョンストーンと同じく、HSBCのトップに立ったり、議員になったりしています。
 

[Jardine Matheson Part 35]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その4 5/15更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)のトップに立った耆紫薇(William Keswick)は、1886年にイギリスに戻るまでトップでいます。その間にウィリアムは香港においては1868年から1887年まで立法局の議員と行政局(現在の行政会議)のメンバーでもありました。行政局は日本で言う閣議に近いですが、当時はイギリスの植民地下でしたので、ジャーディンや太古(Swire)のような大企業の幹部はメンバーになれたそうです。つまり、ジャーディン・マセソンの方向性を政治に反映させることができたということになります。
  また、1877年には香港上海匯豊銀行(HSBC)の取締役、1879年~80年は副チェアマンに就任もしているほか、香港總商会(Hong Kong General Chamber of Commerce)の主席を(1870年、1877-1881年、1884-1885年の3度に亘って務めていました。
 
  また、一時期は在香港デンマーク領事館の仕事もしていたそうです。これはなぜかと言うと、外国人は昔、広東に永住することは禁止されていて、貿易がない冬場はマカオに住むことになっていました。しかし、国の領事であれば話は変わります。つまり、広東に自由に出入りするために必要で、ジャーディンのトップの場合は代々デンマークの領事に着いたということです。
 
  イギリスに戻ってからは創業者の1人である詹姆士•馬地臣(James Matheson)が香港からイギリスに戻り、1848年に創立したMatheson & Companyのトップになります。それは自分が大学を卒業して最初に入社した会社でした。そこにはもう1人の創業者である威廉・渣甸(William Jardine)の兄の子ども=甥である、Robert Jardineがいまして、彼を支える役目もあり、ウィリアム・ケズウィック自身が亡くなるまでずっと続けました。
 
  カナダには「The Bay」というデパートがありますが、その大元は「Hudson’s Bay」というイギリスの国策企業でここの幹部にもなっていました。さらには、競馬のイギリスのダービーが開かれるエプソム競馬場がありますが、ここ選挙区から立候補して国会議員にもなっています。
 
  1912年3月にロンドン南西部にあるLittle Bookhamにある自宅で77歳で亡くなりました。
 

[Jardine Matheson Part 34]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その3 5/8更新

前回書いた経緯から威廉・渣甸(William Jardine)と詹姆士•馬地臣(James Matheson)の両家から後継ぎがいなくなったため、1860年から64年はジェームス・マセソンの妻、瑪麗•波斯富(Mary Jane Perceval)の親族であるAlexander Percevalが、1964年から67年はJames Whittalが「大班(Tai-pan)」に就任します。中華圏に本社を置く巨大企業の外国人トップのことを大班と呼んでいました。なお、Percevalは銅鑼湾(Causeway Bay)の波斯富街(Percival Street)の由来となっています。
 
  凱瑟克(Keswick)ファミリーはまだ出て来ませんが、これから出て来ます。創業者のウィリアム・ジャーディンには姉のJean Jardineがいて、夫のDavid Johnstoneとの間に娘のMargaret Johnstoneが生まれます。つまりウィリアム・ジャーディンにとっての姪っ子にあたります。
 
  このマーガレットはThomas Keswickと結婚します。そう、ここでケズウィック家がついに登場します。マーガレットとトーマスとの間に生まれたのが1834年にスコットランドで生まれた耆紫薇(William Keswick)です。奇しくも創業者と同じ名前のウィリアムでした。ウィリアム・ケズウィックは、そう言った血縁からも1人の創業者のジェームス・マセソンが香港からイギリスに戻って1848年に創立したMatheson & Companyで働き始めます。わずか14歳でした。1855年になるとウィリアムは香港のジャーディン・マセソンに入社し、すぐ上海に渡り上海支店で勤務を開始します。この時の上海の支店長が前述したJames Whittalでした。
 
  この連載のPart 20でも紹介しましたが、日英修好通商条約が結ばれた翌年1859年の1にウィリアムはジャーディンの船で長崎に渡り同年3月まで日本との貿易の調査を行います。同年の7月1日の開港日に横浜に行き横浜支店の初代支店長として生糸の買い付けをメインに貿易業務に関わり始めます。
 
  日本で実績を上げたウィリアム・ケズウィックは1862年5月にジャーディン・マセソンのパートナーとして香港に戻ります。その間にも、日本との関わりも持ちつつ、香港でも懸命に働き1874年にウィリアム・ケズウィックが大班に就きます。
 

[Jardine Matheson Part 33]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その2 4/24更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は現在、凱瑟克(Keswick)ファミリーが統治していますが、なぜジャーディン家、マセソン家ではなくケズウィックという名前に変わったのかを時系列で書いていきたいと思います。
 
  ジャーディン・マセソンは、アヘン戦争、アメリカの南北戦争、戦争、内戦などの影響で業績は上がったり下がったりしますが、当時の時代背景を考えると親族を自分の会社に迎えることは今以上に何ら不思議なことではありませんでした。
 
  まずは、創業者の2人、威廉・渣甸(William Jardine)は生涯独身で、詹姆士•馬地臣(James Matheson)は一度帰国した時に結婚しますが、すぐに相手に先立たれてしまいます。そして1938年中国に戻りました。この頃、理由はよく知りませんが、中国にいたヨーロッパの商人は結婚をしないというのが普通だったようです。アヘン戦争が終結した1842年に再びイギリスに戻り、1843年にイギリスで唯一暗殺された首相、Spencer Percevalの非嫡出子である瑪麗•波斯富(Mary Jane Perceval)と結婚したものの(Part 9でも書いています)、50歳前と人生の後半に入っていました。
 
  1844年、香港に本社ビルが完成するとジェームス・マセソンの親族であるDonald Mathesonがマカオから香港に移転してきます。広州はウィリアム・ジャーディンの甥であるDavid Jardineが仕切り、マカオはジェームス・マセソンの甥で珍しく中国の女性と結婚した亜歴山大・馬地臣(Alexander Matheson)が残り、香港と広州の統括をするという形でした。1848年になるとマセソン家はジャーディン家との契約を解消します。どうやらアヘン貿易に関わったことがマセソン家としてはずっと好きではなかったのですがそれが表面化したようです。代わってDavid Jardineがトップになりましたが、彼も会社を辞めた上、その時にAlexanderまでもがパートナーを解消します。これで、創業両家が血を引く人がいなくなることを意味しました。
 

[Jardine Matheson Part 32]★ジャーディン・マセソンを仕切るケズウィック一家 その1 4/17更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は最初に紹介したように威廉・渣甸(William Jardine)と詹姆士•馬地臣(James Matheson)の2人によって設立されましたが、現在、同グループを仕切っているのは凱瑟克(Keswick)というファミリーです。前回、李嘉誠がジャーディンの基幹企業である香港置地(Hong Kong Land)の傘下である「九龍倉集団(Wharf Holdings)の筆頭株主になったことで自分の手元からなくなったことを書きましたが、ケズウィック一家はこれに懲りたのか、その後、組織を改編してグループ内で株主を持ち合ったりするなど複雑な株主構成にして、かつケズウィック一家が見た目は大株主ではないのですが、同族支配を強めるような形にしています。
 
  ちょっと前にロッテ・ホールディングスで光潤社という重光一家の資産管理会社がロッテの支配構造のトップに立つことが明らかになりましたが、それ以上の複雑さを持っています。
 
  ジャーディン・マセソンは、シンガポール証券取引所に上場していますが、それを見ると、筆頭株主はJardine Strategic Holdingsの57.7%で、Bank of N.T. Butterfield & Sonが4.95%、ケズウィック家が4.72%、亨利•凱瑟克(Henry Neville Keswick)が1.56%、班哲明•凱瑟克Benjamin Keswickが1.21%、アメリカの投資会社The Vanguard Groupが0.7% などとなっています。ここで見れば、ヘンリーとベンジャミンがそれぞれ個人で1%をこえているので大株主とも言えますが、これを見ればJardine Strategic Holdingsが株式の半数以上を持っているのが分かります。
 
  ではこのJardine Strategic Holdingsの株主構成を見るとジャーディン・マセソンが84%、OppenheimerFundsが1.33%、Aberdeen Asset Management (Asia)が1.33%、The Vanguard Groupが0.41%などとなっています。このように株式を持ち合いにし、かつThe Vanguard Groupにおいては両方の株主になってもらうなど、ケズウィック家は敵対買収を防ぐ手立てをしているのが伺えます。
 

[Jardine Matheson Part 31]★ジャーディン・マセソン>香港置地>ワーフ<ウィーロックと李嘉誠 その3 4/10更新

大株主がいない九龍倉集団(Wharf Holdings)は1970年代に新興のデベロッパーとして成長してきた李嘉誠が率いる長江実業(集団)(Cheung Kong(Holdings))(当時)のターゲットになります。怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の基幹企業で、創業者が同じである香港置地(Hong Kong Land)でさえ10数パーセントですから、2、3割の株さえ保有できれば、事実上、買収したのと同じことになります。
 
  李嘉誠は静かに、そして確実にワーフ株を買っていきます。徐々にワーフ株は値上がりしワーフの株価は13.4ドルから56ドルまで上昇します。その頃、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は外国でのビジネスに気を取られ、現実として誰かがワーフを買収しようとするなんて考えていなかったでしょうから「なんか株価が上がっているみたいだな…」程度の認識しかなかったと思われます。
 
  そして、李嘉誠が2割を超える株主となったことを知った時、ジャーディンはビックリ。ケズウィック家は自身が影響力を行使できる香港上海銀行(HSBC)に助けを求めます。するとHSBCは世界的海運会社、環球航運集団(World Wide Shipping Group)のトップでHSBCの社外取締役の包玉剛(YK・パオ)を李嘉誠との交渉にあたらせます。
 
  YK・パオまたはその会社だけでもこのコラムに連載できるので、いつか書きたいと思いますが、この交渉結果は、なんとYK・パオがワーフ株を引き受けることになりました。ジャーディンは李嘉誠の手に渡ることを防ぎましたが同じHSBC取締役メンバーのYK・パオの所に渡ることになったのでなんとも複雑な思いだったでしょう。
 
  ちなみにYK・パオはその後、會徳豊(Wheelock)というコングロマリットを買収します。本社ビルは中環(Central)の置地広場(Landmark)の向かいにある會徳豊大廈(Wheelock House)というビルです。地階にCitibankが入っているので、ピンとくる人もいるでしょう。今は會徳豊がワーフ株の62% を持つ親会社になっていますから、YK・パオ、それまでの経緯をかんがみてしっかりと買収対策をしたと言えるでしょう。一方のジャーディンもこの反省があるのか、現在は、買収がしにくくなるような複雑な資本構成をしています。
 

[Jardine Matheson Part 30]★ジャーディン・マセソン>香港置地>ワーフ<ウィーロックと李嘉誠 その2 4/3更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の基幹企業である香港置地(Hong Kong Land)についてはこの連載のPart 13で説明していますが、中環(Central)の地主と言っていいほどでした。そして、海港城(Harbour City)などを所有する九龍倉集団(Wharf Holdings)の株主でもありました。このワーフは、ビクトリアハーバーを挟んだ尖沙咀(Tsim Sha Tsui)に土地を数多く所有していました。つまり、ジャーディンは中環と尖沙咀の両方を抑えていたことになります。
 
  ワーフは1886年にアルメニアの血を引き、インドのコルカタで生まれた吉席・保羅・遮打(Catchick Paul Chater)が創業者で、香港九龍碼頭貨倉(Hong Kong and Kowloon Wharf and Godown)という名前で創立されます。この人は3年後の1889年には香港置地を現在のジャーディンのオーナー一族であるケズウィック家と一緒に設立しています。社名をみてもわかるように最初は港での貿易業務が中心でした。その後、事業をどんどん拡大を続け、1974年には香港電車(Hong Kong Tramways)を買収。ほかにも、銅鑼湾(Causeway Bay)の時代広場(Times Square)や、高級デパートの連[上/ト]佛(Lane Crawford)スターフェリー、有線寬頻(i-Cable)なども所有するこれまた巨大なコングロマリットに成長します。海港城や時代広場前の壁にある巨大ディスプレーで有線寬頻によるニュースが流れるのはこういった資本関係があるからです。
 
  その資本とはちょっとネックがありました。ワーフは香港置地と同じ創業者ですが、ある意味、独自に発展してきたこともあり香港置地がワーフの株主とはいえ10%台の株しか持っていなかったのです。これは買収されやすいという意味していました。
 

[Jardine Matheson Part 29]★ジャーディン・マセソン>香港置地>ワーフ<ウィーロックと李嘉誠 その1 3/27更新

2018年3月16日、香港最大の財閥である「長江和記実業(CK Hutchison Holdings)」の創業者である李嘉誠主席が同年5月10日の株主総会で引退することを発表しました。これは香港経済の中で象徴的な出来事ですが、戦後は長江を含め含め中華系の財閥がイギリスの財閥に追い越そうと奮闘していく歴史でもありました。
 
  1つ目は金鐘(Admiralty)と中環(Central )の再開発です。香港島に地下鉄がなかった香港は1970年代から地下鉄の敷設に着手します。その中で上述の2つの駅の再開発が行われることになりした。この入札には長江を含め、世界中から大勢の企業が入札に参加しました。
 
  当時の中環の開発の覇権を握っていたのが、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の旗艦会社で以前、紹介した香港置地(Hong Kong Land)で、普通に行けば、同社が受注するという案件でした。当時はまだ中堅デベロッパーだった長江ですが、これは大きなチャンスとばかりに株式発行などをして資金調達に走ります。さらに、受注を獲得しやすくするため李嘉誠は、地下鉄の工事を肩代わりするなどの破格の条件を地下鉄路公司(MTRC)に提示します。その結果、長江が工事を受注し世間を驚かせました。そして、これはジャーディンにとっては屈辱的な出来事でした。
 
  その再開発で建設したビルとは、中環が“家政婦さんの基地”とも言える環球大廈(World-Wide House)、金鐘が世界各国の領事館や日系企業も含め国際的企業がたくさんテナントとしてオフィスを構える海富中心(Admiralty Centre)です。一等地も一等地なのでオフィスの分譲は実質、即完売。莫大な利益を得た長江は中堅グループからデベロッパーのトップ集団に追い付きます。
 

[Jardine Matheson Part 28]★ジャーディン・マセソンと日本(10) グラバー商会その5 3/20更新

1881年になると高島炭鉱は、今度は三菱財閥に払い下げられます。トーマス・グラバーは川田小一郎管事(副社長のような地位)から中国や香港への輸出を任せられ、三菱の総帥、岩崎弥太郎の期待に応えます。1885年になると三菱の渉外関係顧問となり、長崎から東京に移り住みます。
 
  また、三菱の相談役みたいな役割も担っていました。例えば、ノルウェー出身のアメリカ人、ウィリアム・コープランドが1870年に横浜の山手123番に設立したスプリングバレー・ブルワリーというビール会社があります。ただ、多大な借金を抱え1884年に売却される事態に陥り、1885年に、W. H. TalbotとE. Abbottが中心となったジャパン・ブルワリーとして引き継がれます。資本金は5万香港ドルで登記されていますから、記録はないですが、香港で登記されています。グラバーはここに目をつけて、岩崎弥太郎に話をして一緒に株主として参加します。
 
  このジャパン・ブルワリーが「キリンビール」を1888年に発売しましたが、翌1889年にはラベルの変更が行われています。それをアドバイスしたのがグラバーでした。そのデザインは、今の「ラガービール」に引き継がれています。当時と今の違いといえば、今は「Kirin Brewery Company Limited」とありますが、当時は「Japan Brewer Company Limited」となっている位で、麒麟の絵柄を含めほとんど変わっていません。ちなみに三菱での1901年のグラバーの月給は720円で、三菱のほかの幹部よりも100円以上多かった。
 
  岩崎家は明治政府、とくにイギリスへの渡航の手助けをしてもらった伊藤博文に、叙勲を与えるよう働きかけた様で、その結果、1908年勲二等旭日章を受けています。1911年に死去し、長崎市内の坂本国際墓地にツルと一緒に埋葬されています。
 
  長崎の邸宅であったグラバー園は、本人が設計し日本最古の木造の洋館建築で、1961年に国の重要文化財に指定されました。今は、長崎市に三菱から寄贈され一般公開されています。
 

[Jardine Matheson Part 27]★ジャーディン・マセソンと日本(9) グラバー商会その4 3/13更新

トーマス・グラバーは薩摩の人間をイギリスに密航させたと書きましたが、その数はトータルで19人に上ります。そういう意味では、討幕運動の陰の功労者、黒幕ということになります。
 
  1867年の大政奉還後、事業の多角化に乗り出します。1つは1868年に高島炭鉱にイギリスから先端の採掘機械を持ってきて、採掘に入ったことです。ほぼ同じころに薩摩藩と共同で長崎の小菅にドックを建設します。長さ100フィート、幅24フィートで船の修理などを想定しました。このドックは「ソロバン・ドック」と言われ、後に大きなつながりを持つことになる下級武士だった三菱の岩崎弥太郎がここに派遣されてきます。
 
  事業を多角化させた理由は、幕末期の内戦の長期化または激化することで売れると見込んで仕入れた武器や艦船でしたが、討幕運動がグラバー以上のスピードで進んでいしまったため、大量の在庫を抱え込んだほか、掛け売り金の回収が困難となってしまいました。それを補うためではないかと推測しています。
 
  グラバー商会は、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)から資金援助を受けていたので、返済できなければ高島炭鉱を抑えるとも言われ、グラバーは金策に奔走しますが1870年にグラバー商会は倒産しまいます。
 
  タダでは転ばないのがグラバーで、高島炭鉱は官営化された後、後藤象二郎に払い下げられます。ただ、石炭の輸出入を出来る日本人は少ないので結局、グラバーが高島炭鉱の実質的な経営者として運営を続けますが、経営は依然として厳しいものでした。
 
  私生活では大阪の淡路屋という造船業を営む家の生まれの淡路屋ツルと結婚します。最近の研究ではジョン・ルーサー・ロングの小説『蝶々夫人』のヒロイン「蝶々さん」の原型になった人です。この作品はオペラにもなっているので観賞した人も多いのではないでしょうか?
 

[Jardine Matheson Part 26]★ジャーディン・マセソンと日本(8) グラバー商会その3 3/6更新

お金を稼ぐため幕府にも薩長を中心とした倒幕派にも武器を売っていたグラバー商会ですが、薩摩とのつながりは五代友厚です。イギリスに密航するためにグラバーのところに蒸気船を購入しにきたことが始まりです。商談はダメでしたが、これがきっかけでその後、五代のほか寺島宗則、森有礼の海外留学に協力し、最終的には薩摩の人間19人を3回に分けてイギリスに送りだしています。
 
  長州とのコンタクトは坂本龍馬との出会いです。脱藩した彼は日本最初の商社といわれる「亀山社中」を1865年ごろ長崎に設立。武器は当然、グラバー商会から調達します。薩摩藩の名義で武器やユニオン号の購入もしたことが、険悪の仲であった薩長同盟につながります。
 
  その長州藩とグラバーのつながりですが、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)の「長州五傑」を1863年にイギリスに留学させています。この時、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の初代横浜支店長の初代横浜支店長のWilliam Keswick(耆紫薇)、駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーらも手助けをしています。ですので、イギリスに行く前に上海のジャーディンの支店に5人は立ち寄っています。イギリスで世話をしたのがイギリス海軍大尉で退職していたグラバーの父親で、自宅に寄宿させていました。
 
  伊藤博文と井上馨は、イギリスなどの連合艦隊が長州を砲撃することが近いということで戦争回避のため緊急帰国します(結局、説得に失敗し下関戦争になります)。その代わりに1865年にイギリスに行ったのが高杉晋作の徒弟の南貞助で2年間の留学を得て、帰国。1870年には小松宮彰仁親王がイギリスに留学するためそれに随行する形で再渡英。1873年に英国人女性、ライザ・ピットマンと結婚します(日本初の正式な国際結婚とされています)。その後、なんと妻ライザの家庭内暴力が原因で離婚するのですが、南は1886年に香港総領事館の領事として赴任しています。
 

[Jardine Matheson Part 25]★ジャーディン・マセソンと日本(7) グラバー商会その2 2/27更新

グラバー商会は、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)以外の企業とも契約を結び事業を拡大させていきます。そんな中でトーマス・ブレーク・グラバーが目をつけたのは討幕運動でした。現在もそうですが、武器の売買というのは莫大な利益をもたらすからです。
 
  グラバーは1863年の八月十八日の政変後、幕府側、討幕側などが、とにかく武器を欲していたことを感じていたからです。最初は1964年に佐賀藩に蒸気船を売ったことが始まりです。さらに武器販売を加速させたのが1865年にアメリカの南北戦争が終わり、不要な銃などが中国などにも出回るようになったことでした。もちろん、その状況に目をつけたのは彼だけではありません。イギリスのオールト、オランダのシキュート商会、アメリカ人のウォルシュ兄弟が運営するウォルシュ商会など欧米の同業他社と競合しながら武器、弾薬、艦船、大砲などを売り、長崎における外国商館の最大手になっていました。
 
  グラバー商会は後に倒産するのですが、艦船は薩摩に6隻、熊本に4隻、長州に3隻、幕府に3隻など計24隻、金額にして約170万ドルの船を売っています。武器は、厳密な年数と期間は不明ですが、35門の大砲、弾丸700トンの注文を受けたほか、最低でも約50万丁が輸入を輸入しています。
 
  これが実現できた背景は、やはりジャーディンの豊富な資金力と調達力にあると思います。アヘン戦争推進したジャーディンですから、グラバーが武器商人になって利益を稼ぐことは彼らにとってもメリットがありました。
 

[Jardine Matheson Part 24]★ジャーディン・マセソンと日本(6) グラバー商会その1 2/20更新

江戸時代、鎖国をしていた日本ですが、長崎の出島でオランダ、中国、朝鮮、琉球王国のみと通商していたことは言うまでもありません。怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は開港前の1859年2月9日に帆船トロアス号に約200トンの砂糖を積んで長崎に入港します。鎖国中ですからイギリスとは通商関係はないので江戸幕府に捉えられてもおかしくなかったのですが、幕末の混乱期ということもあったせいか長崎の役人は入港を認めジャーディンの船は長崎に入ることが出来ました。
 
  船長のホームズは滞在した2カ月間、色々な物を買い、日本人の家にも訪れて交流までしたと本人が後に執筆した「『ホームズ船長の冒険 開港前後のイギリス商社』で書かれています。購入した物は、その後、上海に持ち帰って売却し利益を上げています。この時の経験が、ジャーディンが横浜にも進出しようと考えた理由の1つになったようですし、当然、長崎でもビジネスをしても大丈夫という判断につながります。
 
  1838年、スコットランドでトーマス・ブレーク・グラバーがという人物が誕生します。羊毛製品の製造会社の代理人として中国に行き、1959年にジャーディンの上海支店に21歳で入社します。ほどなくしてジャーディンの長崎の業務を担当しますが、1961年に独立して「トーマス・グラバー商会」を設立します。
 
  ジャーディンとの関係は継続して、ジャーディンの代理店として事業を始め1862年には「グラバー商会」に改名します。前回書いたように1962年の生麦事件を機にイギリスへのお茶の輸出は横浜から長崎にシフトしていきます。その流れでグラバー商会は1866年には製茶工場も建設。このころはグラバー商会だけで長崎からのお茶の輸出の2、3割を占めると言われるほどでした。
 

[Jardine Matheson Part 23]★ジャーディン・マセソンと日本(5) 中華街とお茶 2/13更新

いきなりですが、なぜ横浜に中華街が栄えたのでしょうか? 中国は鎖国の影響をうけなかった外国人だったのはご存知だと思います。そして、イギリス統治下にあった香港人は英語を話し始めていました。そして、彼らは無論、漢字を使えます。開国で外国企業が日本にこぞってやってきます。そうです、中華系の人々は日本と外人をつなぐ通訳としてやってきた人が少なくなかったのです。俗に言う「買弁」です。
 
  中華系の人々ですから、現地に学校を作り、レストランを作り、商店をオープンさせるなど、独特のコミュニティーを形成します。そうやって中華街が発展したのです。
  怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の横浜支店には中国人のお茶の担当がいると前回書きましたが、お茶も生糸と並んで輸出の主力商品でした。生葉や荒茶ではお茶の形状が不ぞろいで水分の含有量も多いので船で輸出すると劣化する問題が生じます。そこで再製という仕上げの工程をする必要がありました。それを中国人に任せたようです。
 
  ただ、1962年に発生したあの「生麦事件」の影響で横浜からイギリスにお茶の輸出が厳しくなります。その代わりに、お茶はアメリカへの輸出へとシフトしました。
 
  一方で、イギリスには長崎からお茶の輸出が増えていきます。横浜は江戸幕府の監視もあったでしょうが、長崎…しかも出島がありますから横浜より自由に貿易ができたであろうことは想像できます。
 
  ジャーディンの長崎でのお茶業務を担ったのが、あのグラバー商会です。長崎にある公園、グラバー園でも有名ですね。次回からはグラバー紹介について書いていきたいと思います。
 

[Jardine Matheson Part 23]★ジャーディン・マセソンと日本(4) 横浜支店のメンバー、吉田茂の養父、HSBC 2/6更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の横浜支店開店当初の規模はどの位だったのでしょうか? 資料によると1963年はイギリス人3人、中国人の買弁5人、日本人19人、門番・給仕18人、中国人のお茶担当5人でした。
 
  ジャーディンが開港当初からビジネスが順調だったのは、ジャーディンの規模の大きさがあります。自社で船を持ったり、船を手配する資本力があったり、HSBCが進出してくる前は外資系の銀行がないに等しいですから、自分で大量のお金(洋銀=メキシコドル)を日本に持ってくる必要がありました。大商社しかビジネスができないので大きなシェアを取れたというのがあります。事実、貿易額は全国の総計のうちジャーディンだけで6分の1を占め、輸出額でも20%にも達していたこともありました。
 
  吉田茂と言えばあの総理大臣を務めた吉田茂ですが、彼の養父は吉田賢三という人です。吉田賢三は1849年福井藩の出身で、16歳で大阪で医学を、長崎で英語を学んで1866年からはヨーロッパを回って1890年に帰国します。語学力を生かしてジャーディン横浜支店に入社。資料によると1872年には月給50ドルとなり、1876年には80ドルまで給料が増えています。いつ退職したのかなどは不明ですが、吉田茂が子どもの時は、英一番舘の敷地で遊んだこともあったようです。
 
  初代支店長のWilliam Keswick(耆紫薇)は、1962年5月に香港に戻り1874年に本体のトップに登りつめます。1880年代になるとウィリアムの弟であるJames Johnstone Keswickが横浜支店長に就任します。香港置地(Hong Kong Land)の創業者でもある彼は、1984年には、駐日大使のヘンリー・スミス・パークスの娘と結婚しています。
 
  その頃はすでに横浜では英字新聞がいくつか発行されていました。その1つ、『The Japan Gazette』という新聞の1880年9月13日号を見ると、最上段の右から2列目に香港上海匯豊銀行(HSBC)横浜支店の広告が出ています(日本には1866年に進出)。当座預金の金利は12カ月もので5%などと書いていますが、広告にはHSBC本部の取締役の名前があり、Chairmanにはケズウィックの名前が出ています。
 

[Jardine Matheson Part 22]★ジャーディン・マセソンと日本(3) 中華街と生糸 1/30更新

大火で社屋が焼失するなど、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の横浜支店は大変な思いをしましたが、実際、日本ではどんなビジネスをしていたのでしょうか?
 
  初代横浜支店長であるWilliam Keswick(耆紫薇)は、生糸の買い付けをメインに始めました。なぜ生糸かと言うと、1859年7月に横浜に乗り込んでくる5カ月前の2月には上海支店のJames Whittallを長崎に送り込み、約40日間に日本の市場調査をして生糸がビジネスになるというのが分かったからです。拘留も恐れず長崎に社員を送るジャーディンも大胆不敵ですし、開港前だったにも関わらずイギリス人が入国できたのですから、江戸幕府がペリーやハリスの影響でいかに浮き足立っていたのかが分かります。
 
  日本での生糸の買い付けは、基本的に日本人の買い付け人に資金を貸して、生糸を調達してもらうということをやりました。理由は、日本には関税自主権はありませんでしたが「内地通称権否定条項」というのがあって、外商側は日本国内の旅行が禁止されていたからです。それのため、ジャーディンは日本人を雇って生糸の産地に向かわせて買い付けをしていたのです。ジャーディンの担当者は三河出身の高須屋清兵衛と人と言う人でした。
 
  高須屋は期待に応え、気づけは横浜で有数の生糸の問屋に成長していきます。ただ、ケズウィックが1862年5月に香港に戻り、2代目支店長のS.J. Gowerになりますが、徐々に入荷が滞り、1863年には入荷が完全に止まりました。その結果、約9万2000ドルが焦げ付きジャーディンはイギリスの領事館に訴えることになります。滞った理由は、高須屋の労働者が浪人などとの付き合いもあり、一緒にお金を横領したためです。組織としての体制が事業拡大に追いつかなくなったのです。少しはお金を回収できたようですが、最終的には約8万5000ドルの損失として上海支店に付け替えられて約25年掛けて処理したようです。
 
  高須屋は1965年ごろには完全に返済が滞ってしまったため取引関係がストップ。その後、ジャーディンは特定の企業に貸し付けて取引をするということは止めました。
 

[Jardine Matheson Part 21]★ジャーディン・マセソンと日本(2) 英一番舘の焼失と再建 1/23更新

1859年に完成した「英一番舘」こと怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の横浜支店ですが、1866年11月26日午前9時ごろ日本人街で発生した大火が発生。外国人居留地にも燃え広がって英一番舘も焼失したほか、倉庫なども燃えてしまいます。当時の日本支店長であったC.S. Hopeは帳簿などを持ち出すのが限界で被害総額は200万ドルとも言われています。
 
  ホープ支店長はH.P. Austinという部下を香港に送って、横浜支店の再建の要望書を出します。それを承認したのが香港本社に戻っていた初代横浜支店長のWilliam Keswick(耆紫薇)です。
 
  具体的に設計に入るですが、それを担当したのがウィットフィールド・ドーソンという建築事務所です。総工費が1万5000ドル位とさすがのジャーディンにとっても高額であったためこの設計案は却下されます。
 
  ケズウィックも再建を断念するという考えはなかったようで、香港側である程度設計し、かつ日本側にいろいろな条件をつけて、「これで1万ドルで建設するように」と指示します。それでも1万ドルにするのは厳しく、オリジナルの設計にあったベランダを取りやめたりして1万3000ドルまで削減。ケズウィックは結局承認して、1868年6月ごろから工事を開始します。工事中も暖炉に使われるマントルピースなどは横浜では調達が厳しいからイギリスから送るべきかどうかなど、細かなところをつめ(結果、イギリスから香港、を経由して横浜に送られました)、最終的には1869年2月9日に暫定の事務所から新社屋に引っ越します。
 
  ケズウィックとしては、削るところは削るものの、自分が赴任していたこと、日本の商売のポテンシャルを考えて英一番舘としてふさわしい建物を作ろうと考えていたことは間違いないようです。
 

[Jardine Matheson Part 20]★ジャーディン・マセソンと日本(1)1/16更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は日本とも関係がかなり深いです。アヘンを中国に売って莫大な利益をあげましたが、イギリス本国には茶や生糸などを輸出していました。
 
  1853年マシュー・C・ペリーが大西洋、アフリカ、インド、香港、上海、琉球を経由して来航します。江戸幕府は1年の猶予を求めたのでペリーは日本を離れますが、戻った先はなんと香港でした。1年後には日本に返答を聞きにいかなければならないので、アメリカとイギリスの関係を考えると香港に戻るのは当然といえば当然ですが…。翌1854年に江戸幕府はアメリカと日米和親条約、さらに4年後の1858年7月に日米修好通商条約を結びます。これを機にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも通商条約を結びます(安政の5カ国条約)が、うち日英修好通商条約は1858年に結ばれました。
 
  この条約は、箱館・兵庫・神奈川(=横浜)・長崎・新潟五港の開港し、内容も関税の面で日本に不利な不平等条約である事は皆さん歴史の勉強で習ったと思います。そうなれば5カ国の企業が日本で儲けようと思うのは当然です。その1つがジャーディンでした。
 
  ジャーディンは、創業者のWilliam Jardine( 威廉・渣甸)の姉の子であるWilliam Keswick(耆紫薇)を日英修好通商条約が結ばれた翌年の1859年7月1日という実際の開港と同時に香港本社から横浜に送りこみます。なおケズウィックは今の怡和洋行を支配する一家の始祖なので、ケズウィック一家で別の回で書きます。
 
  同社の横浜支店とわるわけですが、同年末に2階建ての商館をあのスーパーゼネコンの1つである鹿島によって建設されました。場所は外国人居留地の1番につくられました。ジャーディンは香港企業ですがイギリス統治下で、ケズウィックもイギリス人ですから通称で「英一番舘」と呼ばれました。現住所は横浜市中区山下町1で、現在はシルクセンター国際貿易観光会館になっています。そして、そこには「史跡 英一番舘跡」という記念碑が建てられています。
 

[Jardine Matheson Part 19]★ジャーディンの手を離れた企業 1/9更新

多数の企業を運営している怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)ですが、関与がなくなった企業もあります。
 
  例えば、1970年に創立の「怡富集団(Jardine Fleming)」はジャーディンと「投資信託の父」と呼ばれるロバート・フレミングが1873年に設立したロバート・フレミング・グループとの合弁企業です。資産運用会社ですが、2000年にJPモルガン・チェースに買収されました。
 
  「Jardines Wines & Spirits」という会社がありました。ワインとスピリッツの輸入販売をする会社で1988年に創業されました。これはジャーディンとモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン(LVMH。ルイヴィトンなどを傘下に持つコングロマリット)のワインとスピリッツ事業の企業であるMoet Hennessy、ジョニーウォーカー、ギネスなどを持つイギリスのDiageoの3社が合弁で作った会社です。ですが、2004年にジャーディンは合弁から離脱し2社の合弁となりました。ジャーディンがいないのに社名がついているのも変ですから2009年にMoet Hennessy Diageo(MHD)と社名を変えています。
 
  いろいろな事業を手掛けているジャーディンですが、このように店じまいをした企業もあるのです。
 
  ジャーディンは実は日本とも深い関係があるので、次回からは日本とジャーディンについての話を書きたいと思っています。
 

[Jardine Matheson Part 18]★ジャーディンのグループ企業その5 ジャーディン・モーターとジャーディン・ロイド・トンプソン 1/2更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は自動車ディーラーである「Jardine Motors」の運営もやっていて、イギリスで成功した独立系のディーラーです。元々は、1969年にNicholasとRonald Lancasterが創立して、1992年にJardine Motors 100%の子会社となって現在に至っています。
 
  23カ国70カ所に販売網があり3000人が働いています。アストンマーチン、フェラーリ、ベントレー、ジャガー、マセラッティ、ポルシェ、BMW、ランボルギーニ、レクサス、マクラーレンという高級車ばかりを扱っています。ただ、ホンダ、トヨタという大衆車メーカーも一部扱っています。
 
  「Jardine Lloyd Thompson(JLT)」は、ロンドンにある保険関連会社です。1972年に設立された「Jardine Insurance Brokers(JIB)」と1981年に創業の「Lloyd Thompson Group」の2社が1997年に合併してできた会社です。JLTは135カ国・地域にオフィスを構え、1万人の従業員が働いています。 日本でもJLTホールディングスジャパンとして六本木にオフィスを構えています。
  サービス自体は40カ国・地域で提供されますが、保険のほか、リスクマネジメント、再保険のブローカーなど世界でも有数の規模を誇っています。
 
  ほかにも、シンガポールの株式市場に上場している車関係の会社「Jardine Cycle & Carriage」、インドネシアの財閥である「Astra International」という企業も傘下に治めています。
 
  Jardine Strategicは、親会社の怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)のほか、これまで紹介した香港置地(Hong Kong Land)、牛[女乃]国際(Dairy Farm International)、文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)の株を保有している持ち株会社で、この複雑な支配構造でグループを買収などから守っていると言っていいでしょう。
 

[Jardine Matheson Part 17]★ジャーディンのグループ企業その4 ジャーディン・パシフィック(1)12/19更新

前回までは香港置地(Hong Kong Land)、牛[女乃]国際(Dairy Farm International)、文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)という怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の3本柱を紹介してきましたが、4本柱と言うべきものが怡和太平洋(Jardine Pacific)です。
 
  Pacificという社名がついているように太平洋地域を中心に事業を展開している会社が中心で、建設、航空貨物、エンジニアリング、レストランなど9つのグループに分かれています。
 
  最初に紹介するのは金門建築(Gammon Construction)です。1919年にJohn C. Gammonがインドで創業した建設会社です。英連邦を中心に事業を拡大していました。その中で1955年に旧啓徳空港(Kai Tak Airport)の滑走路の建設工事を受注します。そして1958年には香港に本社を移し現在に至っています。
 
  どれだけの建築物を手掛けたかと言いますと、金鐘(Admiralty)駅、沙田馬場(Sha Tin Racecourse)、交易広場(Exchange Square)、東区走廊(Island Eastern Corridor)、渣打銀行(Standard Chartered Bank)の本社ビル、機場快線(Airport Express)、The One、国際広場(iSquare)、希慎広場(Hysan Place)、香港政府庁舎本部など。現在もMTRの路線も手掛けていますし、香港以外でも、マカオの威尼斯人(The Venetian)、シンガポール、タイ、マレーシアなど、はっきり言ってキリがないというほどあります。もちろん、創業の地であるインドでも今でも大規模工事を手掛けています。
  2016年の売り上げが22億5000万米ドル、8000人に従業員を擁しています。ジャーディンは1969年から株主となり、1975年にギャモンを傘下に収めました。
 

[Jardine Matheson Part 16]★ジャーディンのグループ企業その3 「マンダリン・オリエンタル」12/12更新

香港を代表する最高級ホテルの文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)。創業は1963年ですので、ライバルとも言えるペニンシュラと比べて35年ほど開業が遅いんですが怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)が運営していることもあり、アッという間に世界的にも有名なホテルグループに成長しました。
 
  1963年に文華酒店(The Mandarin)というホテルとして現在のマンダリン・オリエンタルがある場所にオープンします。ホテルの基本構造は今とほぼ同じです。1974年にバンコクにある東方酒店(The Oriental)というホテルを買収し、マンダリン・オリエンタルとなります。
 
  バンコクのホテルを買収する1年前の1973年に銅鑼湾(Causeway Bay)に怡東酒店(The Excelsior)をオープンさせています。1985年に組織変更を行って今のグループ会社名になりました。その後、広州、ジャカルタ、シンガポール、ラスベガス、ニューヨーク、バルセロナ、ロンドン、ミラノ、ミュンヘン、パリなどと拡大に拡大を続け、20カ国・地域に30のホテルを展開し、1万2000人の従業員が働いています。東京は2005年に日本橋にオープンし、2018年にはドーハの開業が控えています。
 
  96室を構える置地文華東方酒店(The Landmark Mandarin Oriental)は、2005年に開業。なぜマンダリン・オリエンタルからすぐそばなのに作られたのかと言うと、2005年12月から2006年8月まで約11億香港ドルを使ってマンダリン・オリエンタルの内部を大改修。その代替として作られたからです。その結果、434室と部屋の数は減りましたが1室あたりの面積は拡大。434室のうち67室がスイートなのですが、全てデザインが異なると言うものです。
 
  悲しい出来事としては、2003年4月1日に香港の俳優・歌手の張国栄(レスリー・チャン)が自殺を図ったことです。当時、香港は重症急性呼吸器症候群(SARS)真っ只中で小生は取材中でしたが、4月1日だったのでエイプリルフールだったので第1報は嘘だと思っていました。もう1つはエクセルシオールの再開発が決まったことです。オフィスビル兼ショッピングモールに変わるようですが、詳しいことはまだ発表されていません。ここは、地下にDicken’s Barという香港屈指の規模を誇るパブ(=スポーツバー)があるほか、上層階は香港の夜景が美しいToTT’s and Roof Terraceがと言うバーが有名でした。
 
  マンダリンはThe Fan Campaignというのをやっていて、世界のセレブと契約。このホテルのファンですというのをアピール。高田賢三、張曼玉(マギー・チャン)、モーガン・フリーマン、ソフィー・マルソー、クリスチャン・ブルタンなど錚々たるメンバーが名を連ねています。
 

[Jardine Matheson Part 15]★ジャーディンのグループ企業その2 「デアリーファーム(2)」12/5更新

前回から商会している牛[女乃]国際(Dairy Farm International)ですが、株式的には怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)>香港置地(Hong Kong Land)>牛[女乃]国際(Dairy Farm International)です。
 
  ジャーディンにとっては孫会社となりますが、牛[女乃]国際が香港で経営している会社は半端ではありません。スーパーマーケットの「惠康(Wellcome)」。ここに行ったことのない香港市民は皆無でしょう。恵康よりアッパークラスの「Market Place by Jasons」もそうです。高級で有機栽培の食品を多く売る「3hreeSixty」もあります。コンビニエンスストアの「7-Eleven」は牛[女乃]国際がライセンスを持っていて、広東省、マカオ、シンガポールでも運営しています。
 
  ドラッグストアの「萬寧(Maninngs)」もここです。サプリメントなど世界最大の栄養補助食品販売会社の「General Nutrition Centers(GNC) 」の香港・マカオ市場は牛[女乃]国際が担当です。日本人にも人気の家具店「IKEA」も香港では同社による運営で台湾とインドネシアもやっています。
 
  そして、香港最大のレストラングループである「美心集団(Maxim's Group)」は50%の株を取得しています。この美心が抱える飲食店がこれまた凄く「Coffee Concepts(Hong Kong)」という会社を作って「スターバックス」をやっているほか、「元気寿司」、「東海堂(Arome)」もそうですし、「映月楼(Serenade)」、「翠園(Jade Garden)」など有名中華レストランも美心がやっています。 
 
  以下に、香港市民の生活に深く浸透していることが分かりますが、上の系列をスタバでさらに表現すれば、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)>香港置地(Hong Kong Land)>牛[女乃]国際(Dairy Farm International)>美心集団(Maxim's Group)>Coffee Concepts(Hong Kong)…つまり香港のスタバはジャーディンからみれば「4次請け」の企業という、資本関係を巧みに利用して運営する香港ならではの実態が浮かびあがってきます。
 

[Jardine Matheson Part 14]★ジャーディンのグループ企業その2 「デアリーファーム(1)」11/28更新

香港市民の生活に密着しているのが、牛[女乃]国際集団(Dairy Farm International Holdings)です。現在、18万人の従業員、6600の店、2016年の売り上げが200億米ドルという巨大小売りグループです。
 
  1886年にスコットランドの外科医、文遜(Patrick Manson)を中心とした5人の香港ビジネスマンが3万ドルの資本金で設立。牛乳を廉価で提供して香港市民に健康になってもらおうと薄扶林(Pok Fu Lam)に牧場を作って80頭の乳牛を飼育し始めたというのが始まりでした。中環(Central)の蘭桂坊(Lan Kwai Fong)のすぐ東に香港藝穗會(Fringe Club)や外国記者クラブがあるビルがありますが、最初は同社の倉庫として1892年に建設されたものです。事業は徐々に拡大し1899年にバターをオーストラリアに輸出。翌1900年になると豚肉や鶏肉、卵なども扱うようになります。
 
  1904年には下亞厘畢道(Lower Albert Road)に初の小売店を出すようになるまで成長します。1928年には1日あたり1000ガロンのミルクを製造するほか、アイスクリームなども手掛け、店も6店にまで拡大します。
 
  戦後の1964年になると1945年創業の恵康(Wellcome)を買収します。逆に1972年になると、前回書いた香港置地(Hong Kong Land)に買収されてしまいます。ただ、香港置地側は独立した経営を牛[女乃]国際に約束。実際、恵康の親会社が香港置地と認識している人は多くはないと思います。巨大な親会社がバックについたこともあるのか、薬局の萬寧(Maninngs)株51%を1976年に取得。過半数以上の出資比率と占め、傘下に収めます。1986年には親会社のジャーディン傘下だった美心食品(Maxim's Caterers)を吸収し、1989年になると同じくジャーディンの会社だった香港の7-Elevenを買収します。
 
  1990年代後半からは、台湾、マレーシア、スペイン、ニュージーランド、シンガポールなど外国でのビジネスをどんどん拡大しています。
 

[Jardine Matheson Part 13]★ジャーディンのグループ企業その1 「香港ランド」 11/21更新

怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)は巨大コングロマリットですが、実際にどんな企業があるのか紹介していきたいと思います。
 
  ジャーディンの香港での主なビジネスは、ホテル業の文華東方酒店集団(Mandarin Oriental Hotel Group)、食品小売りやレストランなどの牛[女乃]国際(Dairy Farm International)、不動産の香港置地(Hong Kong Land)が3本柱です。特に香港置地は香港の歴史に深く関わっているので、今回は簡単に書いて別な機会に独立した形で書きたいと思っています。
 
  1889年に設立された香港置地…英語名がHong Kong Land=香港ランド…まさに香港の土地は俺のものと言わんばかりの社名ですが、所有している土地の質が凄いものがあります。まずは中環(Central)にある置地広塲(The Landmark)です。ここは香港市民であるならばブランドが入るモールとして知られていますし、ロビーにある噴水で待ち合わせをしたことがある人が多いと思います。
 
  置地広塲に連絡通路でつながっているのが遮打大廈(Chater House)です。ジョルジオ。アルマーニやアルマーニのレストラン&バーが入っています。
 
  交易廣場(Exchange Square)もそうです。在香港日本国総領事館ほかカナダ、アルゼンチンの総領事館が入居しているほか、香港証券取引所(HKEx)、アメリカに本社を置く世界的な法律事務所のレイサム&ワトキンス、1783年にロンドンで創業した総合不動産サービス会社のジョーンズラングラサールなどの企業が入っています。
 
  歴山大廈(Alexandra House)も同社が保有しているほか、無論、ジャーディンの本社ビルである怡和大廈(Jardine House)も香港置地が所有、管理しています。要は置地広場を中心とした周辺のビルはほぼ香港置地の所有と思って下さい。ほかにも北京、上海、マカオ、成都、ジャカルタ、ハノイ、バンコクなどにも商業ビルを多数抱えています。
 

[Jardine Matheson Part 12]★ジャーディンが所有する観光地 11/14更新

銅鑼湾(Causeway Bay)には怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)が開発した面がありますが、今は観光地になっているところもあります。それが、怡和午炮(The Jardine Noonday Gun)、日本語で「ヌーンデイガン」です。これは大砲のことで、毎日正午と1月1日零時に大砲を鳴らします。
 
  実は、皮肉な話でして、ジャーディンは1841年に東角(East Point)に倉庫を建設します(のちには家と庭も造ります)。今では想像もつかないと思いますが、東角はそごうなどがある一帯で当時は埋め立ててなかったので、東角は小さな半島といいますが、ちょっとした出っ張っていた場所で、その周辺は港でした。そこでジャーディンは自社の船が入港する時に職員が大砲を鳴らしていました。
 
  1850~60年代頃のある日、当時のトップであった羅拔渣甸(Robert Jardine)がイギリスから香港に戻って来た時、21発もの大砲を鳴らしました。当時のイギリスの海軍司令官は「祝砲は政府高官か海軍の船に使うべき」と腹を立てて、罰則としてジャーディンに毎日、正午の大砲を鳴らすように命じられました。それは日本軍が1941年に占領するまで続けられ、1947年8月から再開しています。
 
  ジャーディンは1989年から香港公益会(The Community Chest)に3万3000香港ドル以上をチャリティで寄付すると、個人的にこの大砲を撃つことができます。チャリティですので宣伝やプロモーションには使ってはいけないことになっています。
 

[Jardine Matheson Part 11]★創業者の名前にちなんだ通り名 11/7更新

銅鑼湾(Causeway Bay)には怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の創業者、威廉・渣甸(William Jardine)と詹姆士•馬地臣(James Matheson)の名前にちなんだ通りがあります。渣甸街(Jardine's Bazaar)は怡和街(Yee Wo Street)の南にある通りです。
 
  そもそも怡和街もジャーディン・マセソンの漢字の社名が絡んでいますが、それは同社が本社を広州から香港に移した時、この一帯に倉庫などを作ったためです。渣甸街は、手頃な値段で美味しく食べられるレストランが軒を連ねていまして、種類も日本食、西洋料理、中華料理と多種多彩。筆者も銅鑼湾で働いていた時はしょっちゅう、ランチを食べに来ていました。燈籠洲街市(Tang Lung Chau Wet Market)もあります。ただ、ここは香港屈指の家賃が高いエリアなので店の入れ替えが頻繁に起こります。地元香港人は、MTRが上環(Sheung Wan)から堅尼地城(Kennedy Town)まで延伸される前は、ここから出る赤いミニバスに乗るのが一般的でした。
 
  渣甸坊(Jardine’s Crescent)は渣甸街の南にある小道で、女性向けのファッションの露店がずらりと並んでいます。住所的にここで一番有名なのは京華中心(Capitol Centre)です。筆者が来た頃は、地下にゲームセンター、地階に佐丹(Giordano)や大家楽(Café de Coral)、上階には屈臣氏(Watsons)、豊澤(Fortress)、寿司店が入っていました。しかし、2010年に地下1階から地上4階までの6フロア5万3000平方メートルを、家賃1100万ドルでForever 21が契約したので、時代の流れを感じたことがあります。契約で毎年ちょっとずつ家賃があがって1380万ドルで借りていたのですが2017年8月31日に契約満了して延長せず、今度は2017年9月1日から27年8月31日までAmerican Beautyという会社が契約しました。この関連にはL Brands Internationalというのがあり、この傘下にあの「Victoria’s Secret」があります。正式な家賃は公表されていませんが、Victoria’s Secretは月700万ドルと約半額での契約になったようです。
 
  なお、5階から上のフロアは、クリニックがたくさん入っていて、多くの香港市民が訪れています。
  また、時代広場(Times Square)のすぐ東にあるのが勿地臣街(Matheson Street)です。それほど大きな通りではないのですが、時代広場への入り口への道ということで結構、交通渋滞が多く、タクシーが多く走る通りです。
 

[Jardine Matheson Part 10]★ジャーディンの創業者の1人、詹姆士•馬地臣(James Matheson)その3 10/31更新

1843年にパートナーの威廉・渣甸(William Jardine)が死亡し、詹姆士•馬地臣(James Matheson)は怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の名実ともにナンバーワンとなります。ジャーディンの甥であるDavid JardineとAndrew Jardineがマセソンをサポート。大班(Tai-Panと発音。外国人が創業した大企業の会長を指す言葉)としてイギリスから怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の経営をします。1840年代前半にリタイアするのですが、子どもがいなかったマセソンは、ジェームスの甥のDavidとさらに別のジェームスの甥に怡和洋行の経営を託します。もちろん、マセソンの甥たちも経営に深く関わっています。
 
  イギリスに帰国後は政治家としても精力的に活動していて、1843年からパートナーのジェームスの後を継いでAshburton市選出の国会議員となったようです。そして、1847年の総選挙からは地盤を変えてスコットランドのRoss and Cromarty(1983年にこの選挙区は廃止)から自由党の候補者として出馬して当選。1868年まで国会議員として活動をします。ちなみに1968年からは甥のAlexander Mathesonが地盤を継いでいます。
 
  ロンドンの家はセント・ジェームズ宮殿のすぐ西にあるCleveland Rowですが、1944年にはスコットランドの北西部にあるルイス島(緯度的にはモスクワより北にある)と約50万ポンドで島ごと購入して、そこにルイス城を建設しています。
 
  1878年にモナコ公国すぐそばにあるフランスの南西部、イタリア国境に近い、マントンで82歳の生涯を閉じます。
 
  パートナーのジェームスよりは記録が少ないのですが、アヘンを中国で売って莫大な富を築いたという事実には変わりはありません。
 

[Jardine Matheson Part 9]★ジャーディンの創業者の1人、詹姆士•馬地臣(James Matheson)その2 10/24更新

1827年の『広州記録報(The Canton Register)』から遡ること7年。1820年に詹姆士•馬地臣(James Matheson)は在広東デンマーク領事館の領事を務めることになります。当時は外国人が別の国の領事を務める事は特別な事ではなく、DanielとThomasのBeale兄弟は在広東ロシア領事に就任しています。
 
  そして、1932年7月1日に威廉・渣甸(William Jardine)と一緒に広州に怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)を設立します。甥であるAlexander MathesonとHugh Mathesonも一緒に入社させています。
 
  4年後の1936年、それまで貿易で培った中国貿易のことを書いた『Present Position and Future Prospects of Trade in China』を書籍化します。
 
  ウィリアムはアヘンを中心とした中国との貿易を拡大させたいですから、マセソンをイギリスに送り、イギリス政府に清朝に圧力をかけて、貿易拡大を促してもらうなどのロビー活動を繰り広げます。しかし、マセソンは侮辱されるなど失敗します辛い結果となります。マセソンは1938年に中国に戻り、その代わりに1939年にジャーディンがイギリスに向かいます。ロビー活動が成功して1840年にアヘン戦争がはじまり1842年に集結しました。
 
  同年に再びイギリスに戻り、翌1843年には瑪麗•波斯富(Mary Jane Perceval)と結婚します。妻の父はイギリスの第21代首相のスペンサー・パーシヴァルの非嫡出子でした。起業家はロビー活動の中でいろいろと政治家と出会って自社に有利なことをしてもらうようにしますが、非嫡出子であれ彼は親族として政治家と繋がります。
 

[Jardine Matheson Part 8]★ジャーディンの創業者の1人、詹姆士•馬地臣(James Matheson)その1 10/17更新

前回までは怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)の創業者である威廉・渣甸(William Jardine)を紹介してきましたが、今回からはもう一人の創業者である詹姆士•馬地臣(James Matheson)について書いていきたいと思います。
 
  マセソンはジャーディンが生まれて12年後の1796年にスコットランドで生まれます。父はインドとの貿易船の船長をしていました。ジャーディンと同じエジンバラ大学で学び、卒業後は2年間は法律関係の仕事に従事します。その後、叔父がインドのカルカッタで創業したMackintosh & Co.という貿易会社に入社します。しかし、会社は倒産してしまいますが、原因は叔父だけではなく、マセソンも公文書の取り扱いを間違えるなど、ちょっと抜けていた部分があったようです。
 
  叔父はマセソンにイギリスに帰るよう提案したのですが、ここでマセソンは貿易船長である羅伯・泰勒(Robert Taylor)と出会い「広州に行かないか?」となり広州に向かうことになります。貿易会社に従事するイギリス人が広州でビジネスをするわけですから、アヘンを中国に売ることになります。
  なお、後のビジネスパートナーとなるジャーディンとは1920年にボンベイで出会い、広東からボンベイ、カルカッタをつなぐ輸送ビジネスの契約を結びます。のちにはさらにロンドンにまで延長されています。
 
  広州では、甥の亜歴山大・馬地臣(Alexander Matheson)と一緒にアメリカ人編集者を雇い、1827年11月8日に『広州記録報(The Canton Register)』という中国初の英字新聞を発行します。2週間ごとの発行で新聞のコピーをみると価格は50 Centsと書かれていました。
 
  この新聞は、中国とイギリスの関係悪化から、1839年にマカオに、1843年に香港に場所を移し、1863年に停刊するまで発行を続けました。
 

[Jardine Matheson Part 7]★ジャーディンの創業者の1人、威廉・渣甸(William Jardine)その4 10/10更新

威廉・渣甸(William Jardine)が清朝を離れると、清はすぐにアヘンの輸入を停止し、アヘンを没収。イギリスに戻ったジャーディンは早速ロビー活動を開始。そして、ジャーディンのPart 2とPart 3で書いたように政府要人、議員などを説得。1840年にイギリス政府にアヘン戦争を開戦させます。
 
  1841年、ジャーディンは庶民院(=下院議員)の選挙にホイッグ党(自由党と自由民主党の前身)から出馬して当選します。また、Part 4とPart 5で紹介した長年の友人である霍霊沃斯・馬格尼亜克(Hollingworth Magniac)がイギリスで銀行のビジネスをしていたのでそのパートナーとなります。ですが、翌1842年に体調を崩し(肺水腫にかかったと言われています)、寝たきり状態になります。甥のアンドリュー・ジョンストンが世話をしていました。
 
  59歳になった3日後に死亡します。アヘンなどで蓄財をしてイギリスでもっとも裕福な人でしたが生涯独身でした。結婚しませんでしたが、その代わりに兄の息子たちを良く可愛がり、怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)のビジネスを助けます。
 
  医師が商人になり、中国でアヘンを売って、しかも利益の拡大のためにイギリス政府に戦争まで起こさせ、最後は国会議員で終わるという…帝国主義全盛とはいえ、波乱万丈の人生だったと言えるでしょう。
 

[Jardine Matheson Part 6]★ジャーディンの創業者の1人、威廉・渣甸(William Jardine)その3 10/3更新

順調にビジネスを拡大していた怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)。1841年には19艘のクリッパー船とよばれる大型帆船を所有していました。昔は中国からイギリスですと南アフリカの喜望峰を回るので1年半から2年かかったのですが、ウイスキーでも有名なカティサーク号ですと3、4カ月で運ぶことができたのです。しかもこのタイプの船は帆船ですから石炭がいらないので積載量も大きくなるという1石2鳥でした(その後、スエズ運河が開通しますが、同運河は無風なので蒸気船が主流となります)。その他にも何百もの船を抱え、貿易は順調そのものでした。
 
  ただし、当時は清朝側の貿易赤字ならぬ“銀赤字”で清朝の銀保有量は減る一方です。つまり清朝はアヘンの輸入額がお茶や絹などの輸出額より多かったことを意味します。そこで清朝は1930年代中盤からアヘンの流入を防ぐことを含め貿易のコントロールを始めます。威廉・渣甸(William Jardine)としては中国との貿易を拡大させたいですから、パートナーの詹姆士・馬地臣(James Matheson)をイギリスに送り、イギリス政府に清朝に圧力をかけて、貿易拡大を促してもらおうとします。マセソンはロビー活動を繰り広げますが、侮辱されるなど失敗します。ジャーディンは引退するつもりで、マセソンが会社の実権を握る準備をしていたこともありマセソンは中国に戻ります。ロビー失敗の報告を受けたジャーディンは引退を一時延期して本人自らがイギリスに乗りこむことを決断。1939年1月26日、約20年間住んだ中国を離れます。54歳でした。
 
  彼がイギリスに向かうという意味は、元々、引退をするつもりでいたことと、当時の状況としては現在のように飛行機で簡単に外国を行き来できないので、2度と中国には戻ってこないことを意味していました。送迎会はド派手に開かれたそうです。
 

[Jardine Matheson Part 5]★ジャーディンの創業者の1人、威廉・渣甸(William Jardine)その2 9/26更新

1801年に広州に設立されたイギリスのCharles Magniac and Coのトップである『霍霊沃斯・馬格尼亜克(Hollingworth Magniac)』からヘッドハンティングを受けて共同経営者となった威廉・渣甸(William Jardine)は、それまでの蓄えた知識を生かして事業を拡大していきます。そして、Charlesが死亡したこともありCharles Magniac and CoはCharlesの名前を外してMagniac and Coになります。
 
  ジャーディンとホリンワースは商人の詹姆士・馬地臣(James Matheson)も勧誘して、1827年に入社。あわせてマセソンの甥であるマセソンの甥である亜歴山大・馬地臣(Alexander Matheson) も入社します。ホリンワースは自分の株式をジャーディンとマセソンに譲り渡してイギリスに帰国します。2人は1932年7月1日に広州に怡和洋行(Jardine, Matheson and Company)を設立します。シニアパートナーとして前述のホリンワースとアレキサンダーのほか、もう1人のマセソンの甥であるHugh Matheson、ジャーディンの甥であるAndrew Johnstone、さらにはJohn Abel SmithとHenry Wright)いう2人も加わった。
 
  業務はインド中部かのマールワー地方から清にアヘンの密輸をしたほか、フィリピンとの砂糖と香辛料の貿易、イギリスには中国茶と絹を輸出しました。それに加え、積み荷用の保険業務、造船所設備と倉庫のレンタル、貿易金融など貿易に関するあらゆる業務をしていました。
  1934年にはイギリスの国会からイギリスと清の間の貿易取引の独占することを認められ、会社はさらに大きくなっていきます。

[Jardine Matheson Part 4]★ジャーディンの創業者の1人、威廉・渣甸(William Jardine)その1 9/19更新

怡和洋行(Jardine Matheson)の創業者の1人である威廉・渣甸(William Jardine)について書きたいと思います。
 
  ウィリアム・ジャーディンは1784年にスコットランド生まれ。7人兄弟だったが9歳で彼の父親がなくなったため経済的には厳しい生活を強いられた。1800年に16歳でエジンバラ大学医学部に兄の経済的援助を受けながら入学。解剖学や臨床学を専攻します。1802年に東インド会社に就職し、そこでは商船に常勤する医師として働きます。そう、船員の病気やけがをしたときに治療するというのが仕事でした。貿易会社らしいのは東インド会社は自分の貿易業務以外でも、個人で貿易を営む事が認められていて、約45キロ分までは自分の貿易をしたい荷物を船内に持ち込む事が可能でした。商売したい人は自分で商品を仕入れて販売してお金稼ぎをした船員もいれば、そういうのに関心がない船員もいました。幼少時にお金に苦労し、兄弟にも金銭面で助けてもらったジャーディンは、お金を稼ぐことの大事さを身にしみていました。そこで、ジャーディンは持ち込みをしない船員を口説いて自分の割り当てとして譲ってもらい、ある程度の金額を稼いだようです。
 
  この間に貿易のノウハウと人脈を作り1817年に東インド会社を退職して、医者ではなく個人の貿易商として生計を立てています。
 
  そんなジャーディンに転機が訪れます。1801年に広州に設立されたイギリスのCharles Magniac and Coは中国有数の貿易会社でジャーディンも良く取引をしていました。創業者のCharles Magniac が1823年にパリで死亡すると、Charlesの親のHollingworthと兄弟CharlesのDanielが内輪揉めをして、その結果はHollingworthがトップに就きます。その時、Hollingworthはジャーディンを共同経営者としてヘッドハンティングします。
 

[Jardine Matheson Part 3]★イギリスの黒歴史、アヘン戦争その2 9/12更新

怡和洋行(Jardine Matheson)の創業者の1人である威廉•渣甸(William Jardine)は、1939年に戦争をするための綿密な計画をパーマストン子爵に提出します。これは「Jardine Paper」と呼ばれる報告書で、地図、戦術、必要な兵士の数を書いています。また、「『艦隊は北京の近くまで迫り、皇帝に(清朝がイギリスに与えた)侮辱について謝罪するように直接に迫り、破棄させたアヘンの代金を支払わせる。公平な通商条約を結ばせ、厦門・福州、寧波、上海、もしできるなら潮州も自由に交易できるように開港させるべき」などと書かれています。このJardine Paperそのものは、今はみられないのですが、William Jardineこの案をパーマストン子爵に提出する前に、ほぼ同じ内容の手紙を怡和洋行の共同創業者、つまりパートナーである詹姆士•馬地臣(James Matheson)に送って内容についてのアドバイスを求めています。
 
  ウィリアム・ジャーディンがスマートだったのは、長年の中国との密貿易で当時人民の特徴や政治体制を良く把握していたことです。清朝とは満州人が漢民族を支配していた国で、イギリス艦隊を北京近くまで派遣して圧力をかければ、皇帝は清朝の維持ではなく保身に走ると踏んだからです。
 
  1840年6月28日に発生したアヘン千戦争はご存知通り、イギリスの圧勝に終わります。イギリスは清朝と1842年8月29日に「南京条約」とう不平等条約を結び、賠償金2100万米ドル、上海、広州などの5つの港の開港のほか、香港島の割譲となります。ここに現在の香港の繁栄の原点が誕生しました。
 

[Jardine Matheson Part 2]★イギリスの黒歴史、アヘン戦争その1 9/5更新

香港が経済自由度で何度も1位になったのは、イギリスがアヘン戦争で清朝に勝利して、香港を割譲し植民地化したことが始まりです。今の香港を考えると結果オーライですが、戦争の理由がアヘンを売るために起こしたという胸を張れないものです。“戦勝国”ですが大英帝国の誇りを持つイギリス人はまだ少なからずいますが、この話ばかりはさしものイギリス人に非常に話しにくそうです。事実、William Ewart Gladstone(1868年を皮きりに4度首相になる)という政治家は、当時の議会で(この戦争は)“most infamous and atrocious”(破廉恥で非人道的)と反対したくらいです。
 
  江戸時代の日本の鎖国では長崎のみで貿易を行っていましたが、実は、清朝のヨーロッパ諸国との交易は広東港のみに限定していました。イギリスは貴族に人気のあった紅茶が欲しく、中国から大量に購入していましたが貿易赤字でした。現実の貿易は、清朝から免許をもらった中国人商人とヨーロッパ人商人が取引していたのですが、なぜかインド産のアヘンはこの取り決めの枠外でした。麻薬は莫大な富をもたらしますので、イギリスの商人はアヘン密輸してそれを中国人のアヘン商人に裏で販売していました。もちろん、アヘンが市民にまん延し、中毒者が続出したほか、アヘンにより輸入が増えたので赤字に陥り自国の銀の保有量がどんどん減っていきました。
 
  当然、清朝政府はアヘンを禁止する強硬策にでます。するとイギリス本国は当時の外務大臣でのちの首相になるヘンリー・ジョン・テンプルことパーマストン子爵を中心に主戦論が高まり、イギリス議会は最終的に9票差で戦争を認めます。
 
  この戦争をした方がいいと説得をしたのが怡和洋行(Jardine Matheson)の創業者の1人である威廉•渣甸(William Jardine)です。
 

[Jardine Matheson Part 1]★いまの香港を作ることになったジャーディン 8/29更新

前回までは、香港経済に大きな影響をもつイギリス系の太古集団(Swire Group)のことを数カ月に渡り書いてきましたが、今回から書く怡和洋行(Jardine Matheson)は、太古とは比にならない位、香港に影響を良い意味でも悪い意味でも与えた会社です。今の香港を形作った会社といっても過言ではありません。しかも、日本にも大きな影響を与えています。
 
  中環(Central)の超一等地の丸い窓が印象的なビル(在香港日本国総領事館が入っているビルの道路を挟んで東側)の怡和大廈(Jardine House)がありますが、ここが、事実上世界中にある同社の本社機能がここにあります。
 
  次回以降から詳しく説明していきますが、関わりのある会社や人物がとんでもなくありまして、小生もどこから書いていこうか、どのような流れで書いていこうか悩むほどです。関わりを一部列挙すると、マンダリン・オリエンタルホテル、ワーフ、イケア、スターバックス、セブンイレブン、マニングス、アヘン、香港上海滙豊銀行(HSBC)、東インド会社、(コニャックの)ヘネシー、JPモルガンチェース、坂本竜馬、横浜…。Jardineの歴史を知っておけば、香港と日本の近代史をもより深く理解できるというコングロマリットと言っていいでしょう。
 
  では、タイトルに書いたように「今の香港を作ることになった」と書いたのは、怡和洋行が自分の利益のためアヘン戦争をイギリス政府にさせるように仕向けたからです。
 

筆 者 武田信晃
E-mail nobuwork@hotmail.com
略 歴 1996年大学卒業し、新聞社、週刊香港で記者・編集者として従事する。2005年に独立してフリーランスのライターとして活動を開始し現在に至る。香港の政治・経済を中心に執筆する一方、ミーハーな性格から香港映画・芸能、レストランなどのサブカルチャーの記事も守備範囲で08年には『ファーストフードマニア 中国・台湾・香港編』(社会評論社、共著)を刊行した。また、スポーツ好きで香港セブンス、マカオGPは必ず現場に足を運んで取材を敢行する。一方で、カナダ人デザイナーと女性向けバッグLiuciaを07年に設立。ビジネスにも携わることになりストレスをためこむ。また、相方は香港の血を引いているため、香港市民の友人を持つだけではわからない香港を知ることになりディープな原稿を書くことも可能。
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